彼女の内緒事、空飛ぶ夢を見ている。

中学入学を機に、品津和波は腰まで伸びた髪をバッサリと切った。

髪を肩まで切ってしまったせいか、窓に映る自分がどこか他人に見えてしまう。真っ直ぐに伸びた艶のある黒髪、茶色にしては明る過ぎる橙色。見慣れたそれらに、真新しい深緑色のブレザーに薄茶のカーディガン、赤チェックのスカートが混ざると雰囲気が変わって見えるのだ。

それに、制服に身を包むと大人になった気がした。中学生になったのだと言う自覚の芽生えなのかもしれない。起きる時間も早くなった。そのせいか、彼女はいつも、誰よりも早く教室に行こうとしてしまう。

誰かがいる教室はダメだ。何だか、拒絶されている気がする。だから彼女は誰よりも早く教室に向かった。誰もいない教室がいい。後から誰かが入ってくる分には構わない。気にならない。

和波は自分の席にカバンを置き、広々とした教室を見渡した。この時が、一番気分が良い。こんなにも広い教室が、生徒が集まってくると途端に狭く感じる。その感覚が不思議で、面白い。

教室の外で、カラスがガアと鳴いた。

「品津和波」

そう名前を呼ばれて、彼女は後ろを向いた。後ろに、誰もいないことは分かっていた。そう言ったことは初めてじゃない。

見えるのは黒いモヤだけ。よく目を凝らすと、人型に見えないこともない。だが、動物に見えないこともない。何か形を成そうとする意思だけはそこから見てとれた。今にも散ってしまいそうな、黒点の集合体。それが和波に向かって話しかけてきている。

「女王陛下」

それは、いつでも彼女をそう呼ぶ。

否定の言葉を吐くのが面倒で、和波は首を何度も横に振った。

「我々の元に戻ってきてはくれないのですか」

見えていないのか、それとも知らないふりをしているのか。和波のあからさまな拒絶の態度を気にすることなくそれは話し続けた。

「わたし、あなた達と違う…から」

どう接するべきか、何と返答するのが正しいのか、和波には分からない。しどろもどろになりながら、拙い言葉を返す。両手のやり場に困り、黒い髪を何度も撫でた。

「ええ、それは分かっています。貴方は違う。けれど、貴方なのです、陛下」

今日は随分としつこい。いつもなら、彼女がちょっと拒否するだけでサッと姿を消すのだ。諦めたように、けれどどこか強い意志を残しながら。

今日は何だか違う。

ふと、和波は黒いモヤがこちらに近付いてきていることに気付いた。初めてのことだ。動くのか、と思う反面、どうしようもない気持ち悪さが込み上げてくる。机にぶつかりながらも後ずさった。

カラスが窓の外にいる。ガアガアと騒ぎ立てている。

「やだ、こっちに来ないでよ」

拒絶を示したつもりだったけれど、それよりも怯えが前面に出てしまった。震える声を押さえられない。

「女王陛下、我々には貴方が必要だ」

淡々とした声が恐ろしくて堪らない。和波はふるふると小さく首を左右に振った。黒く、艶のある髪が散る。

「ちが、違うよ。そんなの、そんな」
「橙色の目が全てを証明しています」
「違うよ、違うよ…」

モヤがぐっと近付いた。それがわたしを包んだらどうなるんだろうか、和波は恐怖と動揺に揺れる頭で考える。分からない。分からないけれど、決して良い結末にはならないと思った。嫌なものだ。あれは。

黒いモヤが近付くにつれて、和波は汗がにじみ出てくるのを感じた。いつの間にか両手を強く握りしめていた。モヤはじわじわと彼女との距離を詰めている。逃げようと思うのだけれど、足が動かない。どこへ逃げたらいいのか分からない。

「駄目だよ、それじゃあ」

がらりと扉が開く音と一緒に聞こえる低い声。

パッと黒いモヤが霧散したと同時に、和波は今まで呼吸を止めていたかのように荒い息を吐き出した。心臓が跳ねているのが分かる。汗が一層噴き出てきた。机に両手をつき、呼吸を整える。髪が乱れているのは分かったが、直す気になれなかった。

「どうした?保健室へ行こうか?」

やってきたのは恐らく寝屋川だろう、と和波は机を見詰めながら思う。一瞬だけ見えた白はきっと白衣で、焦げ茶は恐らく寝屋川の短く無造作にセットされた髪のはずだ。

瞬間的にそう思ったのは彼が和波の担任であり、親代わりだったからだ。コツコツと靴音が近付いてくる。水色のワイシャツが和波の視界に入ったけれど、まだ喋れそうになかった。

「貧血かな…。うん、とにかく座りなさい」

ぼんやりとした頭で、彼女はどうにか寝屋川の言葉を理解した。イスを引きずり、倒れ込むように座る。顔を机にくっつけると、ひんやりとして気持ちが良い。目を閉じると、辛さが軽減された気がした。

「俺のいる学校を受験させて正解だった」

独り言のように呟くと、寝屋川は細長く、節くれだった手で和波の髪をすく。不器用な父親の動作だった。心地良さと意外な行動に驚き、和波は再び視線を上げる。彼の顔は教壇の方を向いていた。

つられて時計を見ると、8時10分を過ぎたところだった。そろそろ生徒が登校してくる時間だと言うのは、和波にも分かる。

二人の関係性を言葉にするのはひどく面倒で、煩雑だ。だから出来る限り親しい素振りを見せたくないと言うのが和波の心情である。寝屋川に確認をしたことは無いが、似たような気持ちであることは間違いないだろう。

しかし、彼はかなりの変わり者だ。突拍子もない言動は日常茶飯事で、長年一緒にいるが未だに和波は彼を把握しきれない。大きくなれば理解できるのだろうか、と思ってもう何年も経っていた。

考えるのが面倒になり、和波は目を閉じた。

「先生、大丈夫です…」

そう言って寝屋川の手を払おうとするも、弱々しい和波の手はちっともかすらない。彼女の意図を汲んでくれたのか、寝屋川が手を引っ込め、白衣に突っ込んだ。さらりと名残惜しむように彼女の髪を一撫でして。

「先生って呼ばなくてもいい。トヨヒはいるかい?」
「…窓の、外に」
「入れないようにしたんだっけ。そうか、それが良くないのかもな」

そう言い、寝屋川は立ち上がる。コツコツ、足音が窓際へ向かっていく。

がらりと窓が開かれた。暖かい風が一気に教室へ入り込み、散っていった桜の花びらがヒラヒラと机に落ちる。待っていたかのように、カラスが一匹、間髪いれずに教室へ入ってきた。豊日だ。翼をぶわりと広げ、和波の机まで飛んでくる。瞳だけが異様な橙色をしていた。

「和波、大丈夫?」

高くもない、低くもない、中性的な少年の声。聞きなれたそれに、和波は体の強張りがなくなっていくのを感じた。机の上を流れる彼女の髪をカラスが啄ばむ。

「豊日、猫になって」

気だるさを残したまま、彼女がそう言う。

「いいよ」

そう言うとカラスは机に伏せ、みるみる内に黒猫へと姿を変えた。小さなガラス玉のような瞳は橙色のままだ。しなやかに体を動かし、和波を包むように座り込む。暖かい、生き物の熱。柔らかな毛並み。豊日の体を優しく撫でると、彼は鼻先をぐいぐいと押し付ける。和波は心地良さそうに息を吐き出した。呼吸は大分整っている。

遠くの方で一人と一匹が話すのが聞こえた。

「わたしが弱っているのか、強まっているのか」
「いや、それはない。相手に余裕がなくなってきているんだろう。欧米の奴らは元から強硬派が多いしな」

強張った、冷たい口調。いつだって優しく話しかけてくる二人しか知らない和波にとって、この会話は新鮮だった。

「俺達も警戒すべきだった。まだ13歳だなんて、人間側の考えは捨てるべきだったよ。これからもっと、良くないものが和波に引き寄せられてくる」
「わたしも出来る限り和波の側にいる」
「ああ、こっちもそれなりの要請はしておくけどね」

聞こえてくる言葉の本当の意味を和波は知らない。抗えない程の眠気が襲ってきて、彼女はそのまま思考を停止させた。

彼女の内緒事、空飛ぶ夢を見ている。