銀色に光るメガネフレームを押し上げ、寝屋川は保健室を後にする。もうじきHRが始まる時間だった。

和波はまだ眠ったままなのが気懸りだが、行かなくてはならない。保険医にも声をかけたし、猫の姿をした豊日もこっそり保健室に紛れこんでいる。何の心配もないだろう、と廊下を歩きながら再び保健室の方を見遣る。

「あづさ先生、おはよー」

「おはよう。ほら、急がないと遅刻扱いだよ」
「はあい」

のんびりと教室へ向かう生徒たちは、寝屋川にそう言われてわずかに歩く速度を上げるだけだった。甲高い笑い声。何がそんなにおかしいのか、彼には到底理解できない。

それを眺めながら、寝屋川は茶色い髪をがしがしとかいた。セットした短い髪が、縦横無尽に跳ねまわっている。

「生徒に化けるなら、もっと上手にやるべきだ」

唇は震えなかった。けれど、はっきりと聞こえたそれに、一人の生徒が振り返る。他の生徒達は聞こえなかったという風に教室へ向かって行った。一瞬だけ視界が黒く染まる。

しまった、と言う顔をして女子生徒が立ち止まった。

「旦那ァ、どうやって気付くんです?」

観念したかと言う風に女子生徒は苦笑する。高い声だが、少しかすれている。長く揺れる2つのみつあみは栗毛色だ。口元にあるホクロが白い肌に浮いてみえる。

「獣臭ぇんだよ」

メガネをぐいと押し上げながら、不快そうに寝屋川が返答した。少し垂れた目が鋭く女生徒を睨みつける。その瞳には紛れもなく殺意が籠っていた。

「目つきは悪いが、男前にそんな風に睨まれちゃア。たまんない」

ケラケラとせわしなく右手を揺らしながら少女が笑う。寝屋川は身長も高く、体つきもそれほど細くはない。30センチは身長差があるだろう彼に睨まれても、少女は微塵も怯えていないようだった。目を細める姿は狐のそれだ。赤いチェックのスカートから伸びる細い足が、上機嫌に床を叩く。

「おんもしろいなあ。ね、ね、あっしの化け方、おかしい?」
「無駄話をしてる暇はないんだ。消されたいなら消してやるよ」
「うお、おっかねェ。おっそろしい」

大げさに驚いて見せる少女の瞳が紫色をしていることに、寝屋川はようやく気付いた。徐々に姿を見せ始めているのだ。狐か、猫か、きっとそんな化物の類だ。寝屋川は全身に力を込める。彼の雰囲気が変わったのを察知し、少女が慌てて両手を上に挙げた。

「いやァね、ケンカ売りに来たわけじゃないんですよ。むしろあっしは協定結びに来たんでさ、使いですよ。中立だっつってんのに、西洋の奴ら聞きやしねェ。その上シマ荒らされて、こっちも頭にきてさア。いっそ敵対してやろうかってね、話がね、昨日ね!出来たんですよ!ほんとほんと!」

本気で焦っているのがその様子から見て取れる。早口で告げられた言葉をゆっくりと咀嚼し、寝屋川はゆっくりとため息をついた。メガネを外し、まぶたを何度か揉んでやる。

「聞いてやりたいのは山々だが、こっちも他に仕事があってね」

メガネをかけ直し、寝屋川はそう言って腕時計をちらりと見た。人払いはしているが、そろそろ限界だろう。それに、彼自身もHRに向かわなくてはならない。少女の瞳が茶色に戻る。にっこりと満面の笑みを浮かべ、腕組みをした。

「ああ、分かってますよう。ウチはもっちろん、万全のサポート体制でさァ。あっしは…あァ違う。あたしは、寝屋川先生のクラスの生徒です。名前は矢次郎 香杏。コーアンちゃんですよう。クラス一の秀才…という設定です」

再び、視界が黒く染まった。

「寝屋川先生なら、こうやってあたしの話聞けるでしょう?」

首を少しだけ傾け、香杏は上品に微笑んだ。唇は少しも開いておらず、空気はちっとも振動していなかった。

少し遠くでは先程の生徒たちがはしゃぎながら教室へ入っていくところだ。寝屋川はメガネをかけ直し、目の前にいる栗毛の女生徒に微笑みかける。

「矢次郎さん、早く行かないと遅刻にするよ」

今度ははっきりと唇が動いた。