少女のように無邪気な笑みを浮かべた後、くるりとスカートを翻して香杏は教室へと駆けていく。その少し後を追うような形で寝屋川は教室に入った。

ちょこん、と姿勢正しく座る栗毛色のおさげの少女を誰一人不審がっていなかった。保健室で休んでいる和波の席に座っているわけではない。ぎこちなさも、違和感もない。この空間に、彼女の席は当然のように存在していた。

教壇に放置されている座席表にも、寝屋川が手にしている名簿にも、きちんと彼女の名前が書かれている。不自然さはどこにもない。一瞬だけ、感心したような視線を彼女に向けた。少女の自慢げな表情にぶつかり、彼はすぐさま教師の顔に戻る。

出席をとり始めた寝屋川の声に重なるように、香杏の声が響く。

「日本の異形はね、今じゃあ忠誠心も仲間意識も希薄でさァ。それぞれが好き勝手生きている。上下関係も何も無いですぜ、人間様と違ってね」

もちろん、彼女の声は生徒達に聞こえない。文字通り、香杏の一人言だ。寝屋川も表面上は何も聞こえていないふりをする。それでいて、声や表情から彼女の真意を掬いあげていく。

「欠席、遅刻は無し。今日は見逃すけど、田山はもうちょっと早く登校しなさいね」
「だもんでねェ、旦那の思惑が何だろうと関係ないんでさ。ただ、戦後日本よろしく西洋の奴らがここいらをうろつくのが鬱陶しいんでね。勝手しやがってよォ」

アゴを両掌で支え、香杏は口元を閉じたまま微かに笑みを浮かべる。まるでマネキンのように、教壇に立つ寝屋川を見つめていた。彼が密かに香杏を観察しているように、彼女もまた、寝屋川の挙動を観察していたのだ。

視線を感じつつも、彼は名簿に視線を落とした。彼女の言い分は大体分かった。もちろん、全てをそのまま信じることは出来ない。しかし今は敵意がないことだけ分かれば十分だった。

「品津さんは保健室に行ってます。HR終わったら誰か様子見に行ってあげて」

はあい、と生徒の何人かが声を上げた。その中に、香杏の肉声が混じっていることに当然彼は気付いていた。睨みつけてやろうかと思って、止める。

女狐の戯れに付き合ってやる程、寝屋川は幼くないのだ。

真っ白な、肌触りの悪いシーツの中で和波は目を覚ました。

寝た状態で、右に左にと首を動かし周囲を見た。真っ白なカーテンに包まれている。ようやく保健室にいると気付いた。まだ頭がすっきりしない。和波は口をきゅっと結んだまま呼びかけた。

「豊日、どこ?」
「ここだよ」

すぐにそう声が聞こえた。姿を探すと、ベッドの下からするりと黒猫が現れる。互いの橙色がかちりと合わさった。和波が「おいで」と言って豊日を呼んだ。

ベッドに飛び乗り、甘えるように彼女にすり寄る姿は愛らしい。豊日の喉を撫でながら、和波は少し乱れた前髪をもう片方の手で梳いた。

「平気?誰にもばれてない?」
「いつだって聞こえてないし見えてないよ」
「ん、良かった」

ほとんど無意識で行っている為か、和波はいつも自身が話しているものが二人言なのか、誰にでも聞こえる会話なのか分からなくなる。寝起きは特に、意識が混ざっていて分かりにくい。彼女の目覚めはいつも悪い。

肩までかかっていたシーツをめくり、和波は上半身を起こす。現実と夢の隙間に立っているような気分だ。夢がすぐそこにまだ見えるようだった。ごろごろと黒猫が喉を鳴らして笑う。

「まだ寝ぼけているね」
「うん…。どれくらい寝てた?」
「そんなに。まだ1限前だよ」

そっか。そう言うと和波はベッドから出た。きれいに揃えられた上靴を履き、シャツの乱れを直す。すぐ傍にかけられているブレザーを取り、羽織る。そして真っ白なカーテンを思い切り開けた。観葉植物に水をやっていた保険医が顔を上げ、あら、と穏やかな声を上げた。

「もう大丈夫なの?貧血って聞いたけど」

それに何度も頷き、和波は会釈をしながらドアへ元に向かう。保険医には彼女の後ろをついていく黒猫は見えないようだ。

「あっ、ありがとうございました。教室、戻ります」
「そーお?お大事にね。辛いならすぐ来なさいね、無理しちゃだめよ」

再びそれに頷き、和波は早足で教室に戻っていく。できれば1限には間に合いたい。紛れるように、HRが終わると同時に教室に入りたかった。あまり目立ちたくない。どんな形であっても。

「わたし、どうなっちゃうのかな…?」

廊下を進みながら、後ろから追いかけてくる豊日に問う。声は小さく、弱々しい。

「あんなの、今までなかったよ。黒い奴が、あんな風に迫ってくるなんて、おかしいって、わたしでも分かるよ…」

豊日はしばらく考えた。彼女を納得させるだけの考えを持っていなかったからだ。置かれた立場は、和波とほとんど変わらない。だからこそ、痛い程伝わってくるのだ。少女の怯えが、不安が、はっきりと分かるのだ。

「和波」

言い聞かせるように黒猫が言う。

「君はわたしが守るよ」

ただ、廊下を歩く。和波はただ自分の足元を見つめるだけだった。豊日の言葉には何の反応も見せない。

「わたしたちって、何だろうね」
「わたしは君だ」
「こんなに違うのに?」
「それでも、わたしたちは一つのものだ」

強く断言する豊日とは対照的に、和波の声は弱々しかった。