物心ついた時から、和波と豊日は二人ぼっちだった。小さな和室に閉じ込められ、誰に会うこともなく、何をするでもなくただただ生きていた。彼女は姿を変えるカラスに違和感を覚えたことなどない。父親の姿は記憶にない。母親も同様だ。けれど、何故か母の声だけは覚えている。  

事あるごとに母の声は「逃げなさい」と言った。哀愁に心囚われたような声で。寂しそうに、けれど切々と訴えかける母の声が耳から離れない。それだけが、どうしても頭から離れない。その他は、何もかも思い出せないと言うのに。  

しかし心に焼き付けているその言葉の意味ですら、和波には分からない。  

母は死んだ。きっと、恐らくはそうだった。大声で泣き叫んだ記憶がある。それから豊日に「どうしたい?」と尋ねられたはずである。  

「君の母親はここが嫌いだった。けれど仕方がなくここにいた。もう和波の好きなように生きていいんだよ。全ての人が主人公である必要はないんだ」

  優しく豊日はそう言った。何も分からず、何も知らない和波はその問いに「黒いもやから逃げたい」と言ったのだ。  

あの場所にいては自分が何か別のものに変わってしまいそうで怖かった。いつか自分もあの黒いもやになってしまいそうで恐ろしかった。遠い昔の話だ。どうにも曖昧で、上手く記憶を一本の線のように描けないのは和波が幼かったせいだろう。彼女は、自分がどこから逃げたのかすら分からなかった。ただ母の言うままに、ただ、豊日の導くままに。  

そして、その先にいたのが寝屋川である。  

彼は温かく二人を迎え入れてくれた。和波に平穏と日常と常識を与えてくれたのは寝屋川だ。どうして助けてくれたのか、何故こんなにも親切にしてくれるのか、赤の他人である、自分をここまで養ってくれる理由は何なのか。和波はそれらの質問を胸に秘めるばかりで、打ち明けることができなかった。何かを壊してしまいそうで、恐ろしかった。寝屋川自らがその話題に触れることはなかったし、和波自身、それをタブーとして扱うようになっていった。  

おぼろげな記憶を探る時、和波が必ずと言って良い程思い返すのは海の気配だ。小さな格子窓からわずかに海が見え、そこから潮の香りが流れてきた。波の音は穏やかで、時に荒々しかった。優しくも厳しい存在。まだ一度も海で泳いだことはないが、ひんやりした塩辛い水に包まれることはひどく心地が良いのだろう。ゆらゆらと蠢く波に体を委ねることは、ひどく心休まるのだろう。

  海は母であると言う。人も怪異も、あそこから生まれ出たに違いない。磯の香りに紛れて、怪異はそこら中へ流れていくのだ。

  きっと、あそこはあらゆる怪異の住み家だったのだと、薄れた記憶を思い出しながら和波は思う。  

  「集合だよぉ」  

香杏のその声に、和波はびくりと肩を震わせた。  

意識が完全に飛んでいたのだ。意味も無く和波は視線をさまよわせ、そしてようやく後ろを振り向いて香杏の顔をまじまじと見つめる。それを見て、香杏は楽しそうに瞳を細めた。その仕草がやけに大人びて見え、和波は恥ずかしそうにうつむいた。  

「気を付けてね。どんなにあたしたちが気を張ってても、全部は防げない。自衛が肝要だよ」  

準備体操を終え、お互いがお互いの属するグループへ分かれる前に香杏は小さな声で忠告した。深刻な声と真剣な表情に気押されながらも、こくりと目を伏せながら和波は頷いた。平穏な今が大事ならば、明確な意思を示さなければならない。それは豊日や寝屋川に何度も言われていることでもあった。和波の曖昧な態度が、怪物たちに付け入る隙を生んでいる。  

体育着の裾をぎゅうと握りしめ、もう一度和波は首を小さく縦に振った。彼女の橙の瞳が少しだけ輝いたのを確認し、香杏は友人たちの輪の中へ入っていった。

  ひらりと、香杏の視界の隅にカラスが飛んで見えたのは和波の姿が見えなくなってからだ。  

和波は校庭の隅にある右端のコートで、香杏は校舎に近い左端のコートでそれぞれ小さなテニスボールを追っている。  

橙色した瞳のカラスがひらりと羽根を折りたたみ、校舎によってできた日陰に着地した。  

コート外で待機している生徒の何人かが、それを目で追う。どうやら今の豊日は姿が見えるようだ。香杏はぽこん、とテニスボールを打ち返して、ちらりとそちらに目を向けた。ただのカラスのように振る舞っていても、その瞳はやけに目立つ。薄暗がりで輝く橙には、獣らしからぬ品と威圧感があった。  

「あんたらって、危なっかしいんなァ」  

彼女の栗毛色した二つのおさげがゆらりと揺れる。打ち返されたテニスボールを再び打ち返す。  

「どういうことだ」

  本物のカラスのように豊日は地面に転がった小枝をついばんだ。仲間だと思ったのか、本物のカラスが何羽か彼の周囲に舞い降りる。香杏の相手が打ち損じ、ボールがフェンスにぶつかった。しばしの休憩に、香杏はラケットをおろして豊日の方を向く。

  「いやね、先輩?先輩の有能さはようく知ってまっせ。女王さんもあんたも有名だからさ。でも、比重がおかしいっすよ。ステーキとケーキっていうか?安全装置のない拳銃みたいな?」  

豊日は嘴に小枝をはさみながら、じっと香杏を見詰めている。言葉がまだ続くことを見越しているかのようだ。ネットの向こうから「いくよー」と間延びした声が聞こえる。相手がボールを拾ったのだ。ラケットを上げて香杏はそれに返事する。ぽおん、と小気味よい音と共に、ボールが大きく弧を描いて向かってきた。  

ラケットを構えながら、香杏は続ける。  

「んー、そうだな…。オマケがどっちなのか、メインがどっちなん、か、なっ。…アア、畜生」  

思考が動作の妨げになったのか、香杏のボールは対面する友人たちの頭上を大きく越えていく。ボールはフェンスすら越えてしまい、どうやら体育館裏にまで飛んで行ってしまったようだ。  

「なんて言えばいいんですかね。あの女王様が本体なのに、明らかな主従関係があんたらにあるのに、全部が先輩のものなんすよ。知識も、能力も」

  友人たちのからかうような、茶化したような声に、香杏も愛想よく無意味な笑いを交えて答える。  

「わたしは悪魔で、あの子は人間だからな」
「互換性がないっすよね。お嬢ちゃんは女王陛下。じゃあ先輩も女王じゃアないんですか?」
「違うね」
「それなら、あんたは何なんだ?どうしてこんな必死になって彼女を怪異から遠ざける?あの子が人間になるなら、あんたァ、消えてなくなっちまうだろ?」
「さてね」

  曖昧に濁し、カラスはどこかへ飛んで行った。恐らく学校付近を巡回しに行ったのだろう。律儀なものだ、と冷めた目で香杏はそれを見送る。そのまま気持ちを授業に切り替え、ボールを回収する為にテニスコートを出て行った。怪異と言うものは、どこからか、すぐに湧き出てくるものだ。水のように煙のように、防ごうと思って防ぐことは容易ではない。  

豊日達のしていることが、少しだけ愚かに思える。怪異にもなれず、人間に寄りそうようにして生きることを彼女に強いているのだ。どっちつかずで苦しむのは和波だ。和波だけだ。賢いやり方とは到底思えない。  

そして彼らに加担しようとしている自身もまた、愚かなのだ。それを思うと、彼女は笑い声を我慢することができなくなった。人間の価値観で、我々は計れない。香杏は心の中でそう嘲笑した。