ふらふらとした足取りで、和波は一人教室へ戻っていた。貧血で体育を途中で抜けたのだ。不意に現れた黒いもやを直視し、こみ上げてくる吐き気が耐えられなかった。付き添いには香杏が申し出、豊日は黒いモヤを追いかけるために和波のそばを離れる。心配そうな声が聞こえたが、和波は弱々しく震えながら微笑んで豊日を見送った。

「だいじょぶっすか、お嬢ちゃん」

「うん、平気。平気…ちょっと、今朝のだるさが残ってたんだと、思うから…」
「ああ、無理に話さなくっていいっすよ。こっちで喋るのは体力をつかうから。あっしが一方的に喋ってるから、話さなくていいから」

心配そうな声の香杏に、ゆるゆると和波の口元が緩んでいく。

「なんだか、お母さんみたいね」

保健室へ戻ると、さすがに二度目の貧血とあって保険医からは早退を薦められた。他人と違うことを極端に嫌う和波は当然のようにそれを拒絶した。こんな時の彼女はひどく強気だ。保険医もそれを良く理解していたので、「次に立ちくらみがしたらすぐに帰りなさい。私が送ってあげるから」と言って二人を教室へ返した。

和波を気遣ってか、前を歩く香杏の足取りは遅い。ぼんやりと彼女の背中を見つめながら、和波は何か語りかけてみようかと一瞬だけ考える。香杏はそれを「体力を使う」と言った。止めた方がいいな、と和波はすぐに結論づける。

体育着のままだったが、未だに抜けきらない倦怠感が彼女にそれ以上の思考を許さない。きっと教室に戻ったクラスメイトは全員同じ制服で待っているのだろう。休み時間はあと5分もない。

教室の前で、まるでタイミングを計ったかのように聞こえてくる話題。否が応でも入ってきてしまう情報に、思わず二人は歩みを止めた。

「和波さんっていっつも具合悪そうだよねぇ」

にじみ出た嘲笑の匂いを和波ははっきりと感じ取った。そして、吐き気が一層増すのを感じる。黒いモヤに出会ったときのように、もしくはそれ以上に。不意に、クラスメイトの輪郭がぼやけて黒いもやが混じり込んでいくような妄想に陥る。そんなはずはない、そんなはずはないのに。

「おどおどしてるし、構ってちゃん?何か媚び売ってる感じする」
「そこまで言っちゃう?ハハハ、でもちょっとねー…」

その先を和波が聞くことはなかった。香杏がわざとらしいほど大きな音を上げて教室のドアを引いたからだ。思い切り開けたせいで、引き戸は半分以上跳ね返る。それを改めて香杏が引いて、ドアを完全に開け放つ。

「和波、帰ろう。あたしが送っていくから」

これはクラスメイト全員に聞こえた。そちらで声を出したと言うのもあるが、クラス中に聞こえるように香杏が言い放ったのだ。今までバラバラに散らばっていたクラスメイトの視線が一気に集まっていくのを感じ、和波はきょろきょろと視線をさまよわせる。まるで集まった視線の元を一つ一つ探るように。

「だ、だめだよ。先生にも大丈夫って言ったじゃない」
「でも、だめだ。あたしも具合が悪いから。気分が悪い!」

真っ直ぐに前をみた香杏の先には誰もいない。しかし、はきはきとした口調ははっきりと何者かを断罪していた。気まずい空気が流れるのを感じて、和波はただ黙って揺れる彼女の口元のほくろを見つめる。

「不愉快だ。こっちまで腐っていく気がする。和波、早く帰ろう」

帰り際、嫌な匂いがする、そう言ったのは香杏だった。周囲にも聞こえる声で確かにそう発声した。

「匂い?」  

外履きに履き替えながら、和波は小さく首を傾げる。陰口を叩かれるのは何も初めてではないし、悪意があるものをぶつけられたことはない。ただほんの少し、自分を責める気持ちが増すだけだ。だから今回も、和波はそこまで深く傷ついてはいなかった。

それよりも、香杏が彼女の名前を呼び捨てて、彼女の代わりに怒りを露わにしてくれたことが嬉しかった。こういうことは、初めてだった。  

「そう。くっせえ匂いだ」  

愛らしい顔をしかめて、香杏はきょろきょろと周囲を見渡した。普段の口調が思わず出てしまったのだ。誰もいないことを確かめて、香杏は少しだけ息を吐いた。彼女なりの世間体があるらしい。

「さっき、教室で」
「そ、そう…?別に、普通だと思ったけどなぁ…」
「和波は、モヤを見て気分が悪くなるでしょ?」

唐突に変わった話題を和波は慌てて追いかける。靴を履き、玄関へ向かう香杏の後ろを追いかけながら。

「うん、えっ、うん。そうだよ。どうして?」
「ああいうのは少なからず有害なんだ。あたし達にも。腐臭がするから」
「ふしゅう…」

舌で転がしながら、和波はその言葉の意味を考える。すぐに「腐った匂い。すごく臭いの」と香杏が彼女に答えを示す。二人並んで、微かに残った桜の木々の間を歩く。

「ああ、そっ、そういう意味か。うん。それで?」
「それが教室でもした」

教室の時のように、香杏は真っ直ぐ前を見たままだ。睨みつけているようにも見える。先程もこんな表情だったのだろうか、和波は思い返そうとしたが上手く形にならない。

「ひとも、有害な奴は臭いんだ」

独り言のように出たそれに、和波は何と返すべきか分からなかった。彼女も薄ら気付いてしまっていたのだ。有害なものは、そこら中に蔓延しているということ。それと同時に否定したくもなる。香杏が有害な奴と決めつけた彼女達だって、本当は害意なんて持ち合わせていなかった。人間は悪意もなく他人を傷つけることができる。和波はそれに気付いていたし、香杏はそれを知らなかった。

どちらが幸福なのだろう、と和波はぼんやり考えた。答えは出ない。彼女達はきっと明日になれば気まずそうに、けれど謝罪するきっかけも見つからずにもどかしい思いを噛み締めるだろうことは分かった。

誰もが、引っ搔き傷だらけだ。ならば、鈍感な振りをするしかない。ちょっとの傷で騒ぎ立てるのは疲れるだけである。達観した感情が和波を包む。

学校を出れば、黒いモヤが視界に入る。

しかしそのどれもがゆらゆらと立ち上るだけで、和波への接触を試みる気配はない。大抵はそうなのだ。意思もなく、ただ揺れるだけの存在。全てが全てそうだったらどんなに良かったことか。人も、モヤも。

「大丈夫、これは平気だよ」

はっきりと鼓膜を震わせる香杏の声に、いくらか安堵する。けれど、こればかりは頭で理解しても仕方がない。体が自然と拒絶反応を示すのだ。和波はわずかに肩をこわばらせながら黒いモヤのそばを通過した。

若葉色に染まりだした桜並木をゆっくりと歩く。黒いモヤが視界から消え去ると和波はため息と共に緊張を体の外に追いやった。彼女にとっては日常だが、しかしいつまでも成れることはない。

「お嬢さんは不思議だね。人間みたいだ、でも人間じゃない」  

不意に響いた声に、和波はぴたりと足を停止させる。ひとではない何かの声だ。

見えない何か。しかし黒いモヤではない。それだけは分かる。彼女の中に驚きはあったが、嫌悪感や不快感は微塵も感じなかった。むしろ香杏に似た雰囲気を感じ取り、和波は声のする方を見た。横で同じように立ち止まる香杏は少し警戒しているようだったが、その表情は穏やかだ。

「なんすか、あっしらは今下校中なんでっせ?」

  いつの間にいたのか。そんな問いかけはできなかった。こういうものは、いつでもいるのだ。和波に近付くものは何も黒いモヤだけではない。ありとあらゆる化物が、彼女に興味を抱いている。豊日や寝屋川が傍にいない隙をついて彼らはやってくる。和波にはどうすることもできない。良くないものならひたすらに拒絶し、悪くないものならちょっとした雑談に付き合ってやるだけだ。

「栗毛のお嬢さんは狐か何かかな?」
「そういうの、分かるの?」

どちらを向いていいか分からず、和波は桜に向かってそう聞いた。しかしそれも端から見れば怪しいものだ。結局、二人は歩きながら対話を試みた。案の定、声はひたすらついてくる。

「分かるとも、特に黒髪のお嬢さんは有名人だ」
「あんたァ…それを承知でその態度かい?」

香杏にはその姿が見えるらしく、急に立ち止まって後ろを振り向いた。

「そう。ただしわたしは女王が戻って来ようが、どうなろうが、構わない。ただ近くに有名人がいるなら、その顔を拝見するのも悪くはないと思った次第だよ」
「こちとら見せモンじゃアねェんですわ。茶でも出ると思ってンなら間違いやで」
「そうは言っても狐さん。我らが女王陛下がお悩みの様子だ。手が届くのならば差し出したいというのが人情じゃないか」
「言ってることがさっきと違うし、テメェに人情語られたァないわ」

二人の言葉の応酬に、和波がついていけるはずもない。ただおろおろと目に見える香杏とどこにいるかも分からない何かを交互に見るしかなかった。

「君はいつか決断しなくちゃいけない。どっちつかずは苦しいものだよ。どちらかに手を振りなさい」

激昂する香杏を気にも留めず、その何かは淡々とした口調で和波に向かってそう言った。見えないけれど、確かに和波に向けて言い放ったのだ。何故か彼女はそう直感した。

「どうしたらいいか分からない。わたし、どちらも嫌いになりそう」

そう言った本人が何よりも驚いた。はっきりとした意思が浮かび上がってくる。嫌い。その言葉が和波を支配した。

嫌いなのだ。陰口を叩く人間が。利用しようと近づく悪魔が。吐き気がするほどに。笑顔で、無邪気な悪意をまき散らす人間が。吐き気がするほどに。手招きをする怪物が。吐き気がするほど。気絶してしまいそうになるほど。嫌いになりそうなのだ。人間全てが。化け物全てが。

気付き、そして悲しくなる。どちらも嫌いになる自分はきっと、そのどちらでもなくなってしまうのだ。誰も味方になれないのだ。誰の味方にもなれなくなるのだ。和波は足下を見る。踏みにじられて、茶色く汚れた桜の花びらを見る。どうしようもなく悲しくなった。

『何か』は和波の言葉を否定するでも肯定するでもなく、冷静に諭してみせた。

「君の心の声を聞くことだね。とても小さく、弱々しい声だ。いつも耳を澄ませていなさい。きっと聞こえる時がくる」
「そっすよ。お嬢ちゃんはいっぱい考えて、いっぱい悩んでいいんですわ。まぁ、こいつに同意するってのも不快だけんど」

視線をあげ、和波は香杏と見えない何かを見ようと視線を揺らす。

「あなた達は悪魔なのに、良い人だね」
「我々は悪ではない。人々を試す者だ」
「…わたしも試されているのかな」
「そうとも。それを乗り越え、選択した君はきっとどんな存在よりも尊いものになっているだろうね。それこそ我々が触れられない程に」  

そんな風に畏敬の念を送られるのは、やはり苦手だ。そう苦笑するも、和波の心は先程よりも晴れ渡っていた。