「獣の匂いがする」

帰宅早々、そう言ってわずかに顔をしかめたのは寝屋川だった。

「あ……香杏さんと一緒に帰ってきた、から、かなぁ」

リビングにあるソファで小さくなっていた和波は、少し視線を彷徨わせてからそう言った。テレビから流れるアナウンサーの声が途端に雑音へ変わる。

彼が怪異や異形のものを嫌悪しているのは知っている。和波にまとわりつくモヤを「獣臭い」と言っては舌打ちをするのが日常だった。どうしてなのかは分からない。豊日を見る目が時々ひどく恐ろしいものであることにも、とっくに気付いている。

親代わりとして、親切にして貰っているのは重々承知だ。

けれど、寝屋川に対して上手く心を開けないのはその視線のせいだ。

怪異に向けるおぞましい敵意が、いつかは自分を真っ直ぐ見据えてくるかもしれない。そう思うと和波は冷静でいられなくなる。自分があれらとは違う全く別のものであると、和波は未だに断言する事が出来なかった。

綱渡りをしている気分なのだ。ふとした拍子にバランスを崩したら、あっという間に転がり落ちる。そんな風に怪異になる予感を、和波は振り切れない。

「ふうん、そっか。で、どう?アイツは?」

上着を脱ぎながら、何でもなさそうに寝屋川は和波に尋ねた。誰の事を指すのか彼女には分からず、目を大きくしてじっと寝屋川を見つめる。

「怪しい?」

続いて発せられたそれは和波というよりは、すぐ隣に佇んでいるカラスに向けられたものだった。そこでようやく彼女は香杏のことを言っているのだと気付いたが、あえて何も言わないでいた。

「何もさせやしない」
「それは同感」
「あいつらは和波を道具としかみていないんだ」

吐き捨てるような怒りの言葉。そこから二人は苛立ち混じりに会話を続ける。 物騒な内容ではあるが、話し込む彼らはとても仲良く見える。

和波は視線をテレビに戻した。良く分からない海外情勢。評論家の熱弁も、正しいのか誤りなのか分からない。

自分を取り巻く環境も良く分からないな、と和波は笑みを漏らしたくなった。シニカルな素振りが彼女にはまだ出来ない。大人ぶる事も上手く出来ない子供だ。

教室に居る皆が進路を選ぶのはもっと先なのに、彼女は今選べと言われている。人間か、怪異か。

人間は汚い。今日、それを思い知った。

笑顔の中で何を考えているか分かりゃしない。いつだって周囲に敵を探している。見つからなければ作ってしまう。醜いものだ。素敵なことも相殺されてしまうくらいに醜いのだ。

怪異は恐ろしい。彼女はいつだってそう思っている。強引で、こちらの話をちっとも聞かない。いつだって追い回されて、脅かされている。敵意とも悪意とも付かない感情を向けてくる。不可解で、不愉快な存在ども。

あんなものに囲まれて生きて行くなんて到底できそうにない。何より、自身があんなものと同じだと思いたくなかった。

しかし、それは人間であったとしても同じなのだ。

どちらも選びたくないと思う。和波はソファの上で体育座りしながらため息をつく。今の生活が心地良いのだ。これくらいの生活が、幸せが、ちょうどいいのだ。

人間でも怪異でもないものとして生きるのが、きっと一番楽なのだ。誰でもない。どんなものでもない。比較対象がないから、幸福とも不幸とも思わない。流されていたい、いつだって、強い流れに沿って、苦しいも楽しいもないままに生きていたい。

それを「死んでいる」と称する人間もいるだろう。そう思える程、和波は強くなかった。

「俺の意見を言わせてもらうと」

声がこちらを向く。テレビの音が、再び雑音に変わった。和波は何かを察知してぎゅうを自分の膝を強く抱える。顔を伏せる。きっと、あまり良い話ではない。

「和波に人間を選んで欲しいと思っている。その為に俺は君を保護している」

いつもよりも厳しい声だった。教師として教壇に立っている時に似た声。彼の機嫌を伺うように、そっと視線を向ける。眼鏡を外し、目頭を抑える姿は疲れているようだ。父程に年が離れているとは言え、彼はまだ若い。

ふと、彼の手首から黒いモヤが見えた。残骸だとすぐに分かった。きっとどこかにいた怪異を消したのだろう、和波には分からない方法で。そんな日はいつもより疲れた様子で帰宅するのだ。和波には気付かせまいとしているのだろうが、彼女はそこまで愚鈍ではない。

すぐに夕飯の用意をしなければ。お風呂もまだわかしていない。今から沸かせば、7時頃には入れるだろうか。少しでも早く休んでもらおう。

そんなことを和波は考え出していた。思考が逃げ出し始める。聞きたくなかった。

「和波、ちゃんと聞いて」

彼女の悪い癖を見抜いていた寝屋川は和波の隣に腰掛け、真摯な表情を、困惑の表情を浮かべながらそう懇願した。教師然とした姿は立ち消え、保護者としての姿がそこにはある。

「君に夢を見させていたのは俺だ。どっちつかずで良いなんて。でも、もう現実を見なきゃいけないんだ」

しかし、父として接するにはやはり若い姿だ。

「人間として生きて欲しい。これからはきちんと。押しつけじゃないよ。でも、俺はずっとそう思ってる」

こくん、と和波は頷いた。暗示だと分かっている。彼女のためじゃない。自己肯定の為の暗示だ。今までの生活を夢と形容され、和波は言いようの無い虚無感に包まれる。

「それが分かっていればいいんだ」

安堵したように寝屋川が笑う。それが安堵ではないことを和波は知っている。そう見せているだけ。確認作業だ。義務感のような観察眼が彼女を捉え続けている。強く強く膝を抱える。

「君が選んだ道を俺は支援するよ」

人間を選べと聞こえない声が叫んでいる。道なんかどこにもなかった。