いつからか、和波は香杏と登校するが好きになっていた。他愛ない雑談と学校生活への小さな愚痴、目に映るものが目まぐるしく変わるように、話題もくるくると変わっていく。それはまさに友人同士の交流そのものだった。どの友人たちよりも、香杏とは深く関わっていられたのだ。

幼い頃から恐怖の対象だった怪異を、少しだけ好きになっていくような気がする。朝の爽やかな陽光がそうさせるのかもしれない。そして香杏の人見知りしないその性格が何度も和波を救ってくれた。

とにかくそう悪い気分ではないのだ。友達のように振る舞う香杏と共にいると、どちらが何であるかなんて些細な問題であるように感じられる。何を選んでも、そう世の中の見え方は変わらないように錯覚する。

だからこそ、今は寝屋川の言葉が頭をよぎる。彼女のその考えが、ひどく幼稚で愚かであることを暗に責めているのだ。

どちら側に立つべきかが分からなくなる。今見える景色はこの不安定な場所からしか見えない事を和波は知っていた。一方から見える景色が、どんなものなのか検討も付かない。

そんな不安がわき上がる瞬間も確かにあった。この瞬間を楽しいと思ってしまう。楽しければそれでいいと思ってしまう。このまま、止まってしまえばいいと思う。停滞と言う考えが退廃的であることは幼い和波にも分かっていた。けれど、一体何の為だと言うのだろう?

苦しみながら悩みながら、不安に苛まれながら生きることの意味と言うのは。楽しいだけではいけないのだろうか?許されないのだろうか?

決断すべき時はもうじきにやってくるにも関わらず和波は決断できずにいる。選ばないと言う選択肢すら用意されていないのに悩み続けている。寝屋川の言葉が延々とループする。搦め捕るようなやり方が人間の性分だと言うなら、人間は選びたくないと思ってしまう。

考え事のせいか、和波はいつもより口数が減っていた。何かを察した香杏も、あまり話題を振りまこうとはしなかった。二人の少女は静かに、通学路を並んで歩いて行く。彼女の日常だ。青々と生命力が溢れていた街路樹も、ゆっくりと力が抜けていくようだった。緑が徐々に黄色く褪せていく。

緩やかなグラデーションを生み出す自然に寄り添うように、彼女たちの日常も変わりはじめていた。和波と香杏がガラリと教室の扉を開けると甲高い笑い声が響く。

「進路表みせてよー」
「2組の吉田、私立目指すって」
「面接練習って何したらいいの?」

いつも通りの光景に、ちょっとしたスパイス。若い彼らにとって、進路の選択も日常を彩る些細なイベントでしかない。

将来に悩む子ども達は笑いながら一日をゆったりと過ごした。チャイムが鳴るとざわめきは弱まり、そして一日を終えるチャイムと共にざわめきが帰って来る。

「進路調査どうするよー」
「部活中に書いちゃおうよ」

話は何度も同じ所を通り過ぎ、そしてまた戻っていく。一つの話題を延々と繰り返す。そしてまた未来への不安を笑って話して繰り返す。それを和波は陰鬱な表情で眺めていた。

その感情は嫉妬にも似ている。和波には心配事を笑って話せるような心境が理解できなかった。

どの道を行けば良いのか。そこはきちんと歩けるだろうか?崖に通じていないだろうか。獣道ではないだろうか。道ゆく人と声を交わし朗らかに歩いていけるだろうか。スリに怯え、悪漢に怯える事にならないだろうか。

巡る思考が止まらず、渦に飲み込まれるような感覚。追いつめられ、けれど逃げる術も見込みも無い絶望。何も打開できず、解決することすら望めない。ただ成り行きに任せて漂流するしか無い。しかし、濁流に身を投げるのは自分自身の意思で行うのだ。

そう思うと、和波は決して笑うことなど出来なかった。自分の意志など無いかのような渦の中で、笑顔を浮かべるなんてこと、到底出来ない。

猛烈な渦の中にいるのは、きっと自分自身だけなのだ。教室のどこかから、将来への不安を吐露した笑い声が聞こえる度に、和波はそう思うのだった。

笑い声をかいくぐるようにして、和波はそっと机の上に突っ伏した。誰とも上手く喋れそうにない。寝屋川の授業が無くて良かった。薬品の匂いがする理科室で昨夜のような視線を向けられると、彼女はいつも標本になったような気分になる。

ちらりと時計を見上げる。チャイムが鳴るまであと4分。授業が終わるまであと54分。もう少し、もう少し。和波は心の中で何度もそう唱えた。もう少し、もう少し。教室はいつもより息苦しい。早く外に出たかった。 香杏はそれを自分の席からじっと眺めている。「決断の時期」は怪異にまで伝わっているのだ。女王帰還となるか、女王消失となるか、どちらに転んでも大ニュースに違いない。だからこそ、彼らは懲りる事無く和波にまとわりついてくる。

和波の周辺をふわふわと漂う黒いモヤは日ごとに増えていた。

誰も彼もが決断の日がまもなくであると知っている。

ぼんやりとしたまま授業は終わり、和波は帰宅する準備を始めた。ふと、「私が人間を選んだらどうする?」と言う問いを香杏に投げかけたかった。それが出来ないのは見せ物のような自分に成り下がりたくないからだ。腫れ物にさわるような、顔色から仕草から何まで、どうにか意思を読み取ろうとする他人の眼がひどく恐ろしい。

黒いモヤと対面するとき、和波は自分がショーケースに陳列された商品にでもなったかのような感覚に陥る。あの、品定めするかのような、無機質な視線。こちらの本質を探り出そうとする癖に、一切の交流を断つ視線。

「やー、一日長かった長かった。さっ、帰りましょうか」

心無しかいつもより元気な香杏の声に、和波はこくんと頷いた。

穏やかな友人として接する少女の瞳が、どのような変化を遂げるのか。和波はそんなこと知りたくなかった。手にした鞄の重みが不安定な彼女を地面に縫い付けてくれている。そんな不安定さを香杏に知られたくなかったし、誰にも見せたくなかった。まるで自分一人が世界で弱いような、そんな態度はやはりひた隠しにしておきたいのだ。

朝と同じように二人の少女は静かに街路樹の間を通り過ぎていく。朝見たよりも葉の一枚一枚が黄色く色付いて来たような気がする。 街路樹の緑のように、緩やかに変貌していきたい。和波が今思えるのはそれだけだった。

不意に獣じみた悲鳴が響く。

深く思考の汚泥にのめり込んでいたので、予想外なその咆哮に和波は大きく肩をびくつかせた。人通りの多い並木道には不釣り合いな悲鳴だ。空間を縦に引き裂いたような不協和音。耳障りで、不快感を煽る叫び声がわんわん反響している。発信源らしきところに和波が目を向けようとするが、乱反射するかのような悲鳴にただ翻弄されるばかりだった。

香杏はすでに検討を付けているようで、ある一カ所へ怪訝そうな視線を向けていた。すれ違った会社員は何事も無いかのように携帯電話を操作している。まるで何も聞こえていないかのように。

そこでようやく和波はその悲鳴が怪異のものだと理解した。よくよく考えれば、残響のような悲鳴を人間があげられるはずがない。 若葉が目立ち始めた木々の隙間にそれはいた。曖昧な輪郭で漂う黒いもや、和波が見慣れたものよりもずっと深い黒だ。

輪郭はペンで何度もなぞっているように揺れている。大きな四つ足の怪異のようだが、少し人の姿にも見えた。ちょうど人間の首あたりに、黄ばんだ牙が見える。それだけがくっきりして見えたので、合成のような違和感がある。 その牙は犬のような、猫のような小動物をくわえていた。そこから滴るのは紛れも無く赤い鮮血で、蒸発しているかのように黒い霧が滴り落ちるそこから溢れ出している。

悲鳴をあげているのは、小さな獣の方だった。びくびくと、ひときわ大きく体を震わせたかと思うと、ふっと黒煙になって消え去った。真っ赤な血も幻のように立ち消え、どす黒く曖昧な輪郭の獣だけがその場に残った。

黒いもやの獣はけたたましい声で笑った。明らかに歓喜だった。むしゃむしゃと咀嚼する。そしてまた雄叫びをあげる。悪意ある歓喜、悪意の雄叫び。

共食いだ、と和波は直感した。

どう見ても生き延びる為の狩りではなかった。あの咀嚼は生を貪るものではない、一時の快楽を貪る仕草だった。いつも以上の不快感を覚え、和波は体がすっと冷えていくのを感じる。

「殺された」

ぼそりと香杏がつぶやく。体をひねって後ろをみると、彼女は怒りで体を微かに震わせている。

「あんにゃろう。ふざけてやがる。野良の分際で。畜生、畜生」

言葉にならないのだろう。小さく何度か「畜生」と呟く。少女らしからぬ低い声だ。いつの間にか香杏の瞳は紫色に輝いている。その鮮やかな菫はまるで警告灯のようだった。爛々と輝くそれに、和波は魅了されると同時に驚愕する。

こんなにもあからさまな悪意と敵意は初めてだ。同級生達が時折漏らす陰口にはこんなもの込められていない。それを耳にした香杏も軽く顔を歪ませるだけだ。中には心を突き刺す言葉も耳に入るけれど、こんなものを向けられた事は一度としてない。

香杏の変貌に驚くよりも、あの行為がそれだけ彼女を激怒させたのだと言う事に驚く。そして共振するように和波の中に怒りが生まれる。

不快感を覆い尽くすように、緩やかな衝撃が和波を包んでいく。人も怪異も、悪意あるものは悪意で満ちている。善悪は種族で隔てられていないのだ。

「どちらかが絶対的に正しければわたしだってこんなに悩まないのに」

小さくそう声に出すと、輪郭の揺らいだ黒いもやがこちらを向いたような気がした。しまったと思う前に、四つ足の怪異の黄ばんだ牙が動く。

「おんやぁ、そこにいらっしゃるのはぁ、まさかぁ?」

地響きのような耳障りな重低音と体をずるずると引きずってくる。言葉は間延びしていて、どこか挑発的だった。黒いもやは這いずるように近付いてくる。

「女王様ぁじゃあないかぁー?」

獣の首がずるりと伸びて、和波の眼前へと向かって来た。香杏は素早く動き、和波を自身の背で隠す。彼女の持つ敵意の目は、先程よりも鮮やかに色付いている。

「なんだい、なんだい、邪魔ぁするのはぁ?」
「テメェ、さっき喰いやがったな、ウチのもんを」
「おらぁ野良だからあぁ、ウチとかソトとか分からんなぁ」

感情も浮かばないような愚鈍そのものの口調。ずるずるとなおも近寄ってくるもやからは、凄まじい腐敗臭がした。和波は思わず両手で鼻と口を覆った。吐き気が込み上げてくる。脂汗が滲み出る。くさい、気持ちが悪い、おぞましい。

心の中で豊日を呼んだ。

どこかへ行くと言って、昼から姿を見せていない。時々そう言う事があった。けれど、そんな日は寝屋川がそばにいてくれる。香杏と知り合ってからは主に彼女が。豊日がいない日だって、何事もなく過ごせていたはずなのだ。

だが、立っているのも辛くなる程の腐敗臭にあてられ、和波は豊日の名前を呼ばずにはいられなくなった。豊日、豊日、豊日、彼女を救ってくれるのは彼だけだ。彼女を守るのはいつだって彼だけだった。

「何で喰った」

怒りを抑えようとしているのがその口調からも感じられた。努めて冷静に、感情を殺して香杏がそう問うと、再び悪意の雄叫びが響く。

「喰いたかったからぁー、ああいう小さいもんはぁ、びちびち跳ねておもしれぇ、傷だらけになってぇおもしれぇ」

けたたましい、醜い笑い声が響く。不快さを感じる前に、嬉しそうに喋る化け物に和波は疑問を抱いた。

「どうして、傷付けるの」

いつの間にかそう尋ねていた。和波にはその化け物の感情が全く分からなかった。傷付けることの何が面白いのか。心を痛めないのか。香杏から、今、こんなにも敵意を向けられていて、何も恐ろしくないのだろうか。

純粋な興味から尋ねていた。

「人間だってやってるだろぉがぁ。自分より弱そうなやつをぉ、迫害してぇ、虐殺してぇ。人間様の得意技だぁー」

ふとクラスメイトの姿が浮かんだが、すぐに消えた。そんなことをされた覚えは無い。今のは和波自身が勝手に作り上げた幻想だ。そんなことをする人間を、和波は知らない。そんな言葉がある事を彼女は知っているが、それでもその行為を見た事は一度だってなかった。

「そんなの許されない。理由に、な、ならないよ…」

少し怯えながら、和波はそう言い返した。

「なんでだぁー?」
「だって、やり返していたら、終わらないもの。あなた、とってもひどいことをしたの。信じられない」
「したかったんだからしょうがないだろぉ、楽しいんだからぁ」

その悪びれない言葉に何故だか無性に苛ついた。怒りそのものが体を支配していた。今まで感じていた怯えはどこかに消え去った。どうしようもない怒りが和波の体中を駆け巡る。その事に彼女自身さえも気付けない程の早さで。

ただ無性に目の前の獣をいたぶってやりたかった。傷付けたかった。後悔させてやりたかった。弱者はお前なのだと。

敵意よりも困惑を浮かべる紫色が自身に向いているのを和波は気付かなかった。

香杏の背中を押しのけ、黒いもやと対峙する。何も考えられなかった、思いつくままに、けれども言葉を選ぶような慎重さで声を発する。感情が先走り、声が震える。

「そういう、そういう…我がままが…人にも、怪異にも、あるから…だから…」

少しためらった。けれどすぐさま決意する。確信があった。呼吸するように断罪することの確信。

「わたしは許さない。何であっても、そういうものを、そういうものの存在を許さない」

大人びた声だ、と和波は言いながら思った。そういう風にしてみせようと思ったわけではない。ただ、感情のままに声を発したら、そうなってしまったのだ。次の言葉は、するりと口をついて出た。

「消え失せて。いなくなって」

まるで夢から覚めたかのように曖昧に、けれどハッキリと暗黒が消え去った。連続した瞬きの合間の出来事だった。黒いモヤどころか、先程まで感じていた腐敗臭が一気に消えた。霧散したと言うべきだろう。

いなくなったのだ、文字通り。消え失せたのだ、和波の言う通り。

その事に気付いた時、和波は自身の成長を素直に喜んだ。頭上から聞こえた声は豊日のものだった。

「……和波?」

何だか奇妙な予感がし、豊日は下校する和波を追いかけていたのだ。大きなカラスは彼女の頭上を旋回し、周囲に人気が無いことを確認すると和波の足下に着陸した。常に淡々と冷静な言葉を吐き出す豊日の声は、どこか動揺を孕んでいる。しかし、嬉しそうに報告する和波はそんな事に疑問を抱けなかった。

「みてた? 豊日、わたし初めて一人でやっつけたよ」

嬉しそうに、まるで幼児がするかのように、瞳を輝かせて報告する和波を否定できるものはいなかった。悪い事とも良い事とも言えなかった。豊日はただじっと和波を見つめ、「そうか」とだけ呟いた。

自身の成長に浮かれ、和波は彼のその態度に対して深く考えようとしなかった。

ただ一人、香杏だけは喜びで打ち震えた。恍惚とした表情のまま、ひっそりと彼女達から距離をとる。込み上げる感情は狂気にも似ている。

「最悪だ。そんでもってアア、最高。ありゃ、まさしく下僕に命じる陛下さね」

誰にも聞こえないように慎重に、けれどはっきりと声に出す。そうしてやっと、香杏は満足感と多幸感に浸る事が出来た。女王は帰還する。きっと、もうすぐだ。怪異としての香杏だけが、喜びで飛び上がっている。