Kensington:忌

2007-09-01
Kensington

Kensington:忌

マンションは三階建てだった。奇妙な人々が住む中で、より際立っていたのはコルサコフだった。彼は、最上階をまるまる一人で使っていた。マンションの中を意味無く往復し、廊下を散歩し、ばたりとそのまま眠りにつくこともあった。独り言は常であったし、異質ともとれる美しさは、住人たちの畏怖の対象だった。 

ふらりと、コルサコフはマンションから出て行った。突然パスタが食べたくなったのだ。のんびりと歩きだしながら、頭の中に店への地図を描く。だが、それはうまく頭に描くことができない。食べたかったのはパスタだったろうか、それともボルシチだったろうか。それすらも忘れていた。 

ふう、とため息をついて諦めて、コルサコフは公園のベンチに座った。それだけで疲れてしまったのだ。ハトが何匹か足元へ近づいてきた。餌付けでもされているのだろう。コルサコフはポケットの中に食べ物が無いか探したが、何もなかった。ごめんよ、とハトに向かってつぶやく。 

ふと、ハトの視線が右腕に注がれている気がして、コルサコフはああ、と言って笑った。まるで自慢話をするように語り出した。ハトは鳴き声一つ出さなかった。 

「馬鹿なやつは僕を見下すよ。でも、僕よりも賢い人たちはこれを見て怯えるよ。本能でそう悟る人もいた。意味を理解する人もいた」 

右腕いっぱいに、乱雑に刻まれた数字。6で始まり、6で終わる。真ん中の数字は1にも見えたし、6にも見えた。昔にできた傷なのだろう。その数字はてかてかと異質さを強調していた。にこりと終始笑顔のこの男は、何の感情も持っていないようだ。 

「666。誰が打ち倒せるんだろう」 

コルサコフはそう言って、ベンチの背もたれによりかかった。真っ白な肌に、真っ黒な髪。着ている服も真っ白だった。モノクロの世界。彼は色彩を持っていない。 

「616。足すと13。西洋では不吉な数字」 

コルサコフはそう言って、ハハと笑った。真っ青な空を見上げた。白い雲のない空を、彼は不快に感じる。もっと白くなればいいのに。そうすればきっともっと美しい。ぼんやりと濁った瞳で、ハトをちらりと見やる。遠くの方で餌を投げる老人がいた。ハトはそちらに飛んで行ってしまった。 

語る相手を無くして、コルサコフはつまらなそうに笑った。そしてかがみこむようにして座り直し、真っ直ぐ前を見つめた。両手を強く強く爪痕ができるほど握りしめ、その瞳は睨みつけるようであった。 

「不吉まみれ」 

恐ろしく冷たい声で、ぼとりと言葉を落とす。 

「誰かに打ち倒されなくてはならない」 

コルサコフは顔ごと老人たちの方へ向けた。にこりと笑ってハトに餌をやる姿は平和そのものだった。 

「罰も無いのに、罪も無いのに。僕は打ち倒されるべく、ここにいる」 

のそりと、緩慢な動作で彼は立ちあがる。しかしすぐに歩き出そうとはしなかった。少しだけ猫背になった体を真っ直ぐに伸ばし、また空を見上げた。どんなに見つめても白い雲は無い。 

「一体誰が気付くんだろう。異常な世界に。たった一人残された正常者がこの僕だなんて」 

そっと目を細めてハトを見つめた。その表情は慈しむようでもあったし、憐れむようでもあった。そしてくるりと体を反転させる。歩き出した。歩き出した。 

「だぁれも気付かない。きっと、世界の終わりにも彼らは気付かないんだろう」 

モノクロの青年は、ゆっくりと歩き出した。帰って行った。異常者ばかりのあのマンションへ。食事をすることはもうとうに忘れてしまった。白い雲が無いせいだ、と彼はぼんやりと考えた。白い雲の無い世界はとても醜い。隠しきれない嫌悪が静かにこみ上げてくる。舌打ちすることさえもできずに彼は公園を出た。 

最後にハトが鳴き声をあげた。小さく、かすかに。まるで別れを告げているかのように。

「例えそうだとして、一体僕に何ができるんだろうか」