Kensington:Special

2007-11-02
Kensington

Kensington:Special

一人の男が管理人の元へやってきた。重く暗い管理人の部屋へ直接殴りこんできた人間はこれが初めてで、住人たちは好奇心そのままに傍観していた。幾度となく、飽きることなくドアをたたき続ける男に、管理人が応じるかどうか。この事態をどう収めるか、果ては管理人の姿まで。全てを見届けようとしていたのだ。

彼は裕福な家庭の次男だった。ある程度我慢を覚えて育った長男とは違い、全てを与えられて育った男は、いささか傲慢であった。ドアが開くのも我慢できず、そのままドア越しに怒鳴りつける。

「私は朝日の見えるあの部屋がいい。誰も住んでいないと聞くが、なぜ住めない?」

男は我慢もできない。だからといって何でも許されるような世界ではない。彼自身それは分かっていた。そのために彼がしたことは、自身の生まれを最大限かつ極限まで活用することだった。紙切れを山のように積み上げれば何でも叶ったのだ。

なんて容易い世界だろう。男はみじめなことに、そう思っていた。そして、そのしっぺ返しは万倍にもなって返ってくる。ある日両親からごとりと札束を手渡され、それと一緒に絶縁を告げられた。

その時になって、金は無尽蔵でなかったことにやっと気付く。手の平いっぱいに残った札束はとんでもない額であったけれど、彼には全くの無関係だった。足りない、それしか思わなかった。今さら質素な生活などできやしないし、その気の短さも矯正しようがない。

何度もドアをたたき続け、やっとのことでドアが開いた。住人たちは初めて見る管理人の姿を食い入るように見つめた。深くかぶった青いニット帽に、艶やかな黒髪が口元以外を覆い隠し、白くて大きな毛布で全身を覆い隠していた。背はさして大きくなく、少し猫背のせいか実際よりも小さく感じられた。

「そこは売約済みです」

まるで少年のような声が聞こえた。ただゆったりとした口調がひどく女性的であったから、それだけでは性別は分からない。

「住んではいないようですが、毎月家賃を振り込む方はおられます。住んでいようといなくとも、お金さえあれば私は十分にございますから。あなたのように」

淡々とそう述べると、管理人はさっさと部屋に戻ってしまった。男は怒り狂う暇もなく、ただ呆然と立ち尽くした。住人達はこれ以上の出来事は起きないだろうと予想し、管理人以上の速さで帰って行った。

その部屋の住人であるネシはずいぶんと粗野な少女で、せっかくのきれいな金髪は短く、適当に切っていた。部屋へはほとんど戻らず、すぐそばの路地裏で猫と一緒に、猫のように生活していた。住人のほとんどがそこを空室だと思うのも無理はない。

常に共にいるクリームがかった猫の名前はペーターと言った。もじゃもじゃの毛皮はいつもネシのおかげで清潔に保たれている。二人は家族よりも友人よりも深く深く分かち合っていた。

ネシが両親からもらったものはこの小さな子猫と通帳だった。通帳にはひどく事務的な金額がきっちり毎月3日に振り込まれていた。彼女はそれが気に食わなかった。可能な限り自力で生きようとした。どんなにみじめになっても、ペーターと共に両足を地につけて生きていることを誇りに思った。

「ペーター」

ネシがそうっと呼ぶと、子猫は振り向き小さくうめくように鳴いた。彼女の声に反応しただけであって、言葉を理解したわけではない。彼女がそうっと手を広げると、吸い込まれるようにペーターがネシの手の中におさまった。

「生きていこうな。ずうっと、あたしと二人で、何も変わらず。あたしたちは特別なんだ」

ふかふかの毛に頬ずりをしながら、ネシは強く子猫を抱き締めた。ペーターはごろごろと喉を鳴らし、そうっと目を細めている。ネシはただひたすら、ペーターの背後に見えるあのマンションをにらみ続けた。ああ、なんて憎たらしいケンジントンの隣人たちよ。