Kensington:現の隙間
もともと、隣人たちは他人に対する興味がなかった。管理人からもマンションからも暖かみが感じられないせいか、自然とそう言うタイプの人間を引きつけたのだろう。
今のような団結力を築き上げたのは、50代の男だった。少し薄くなった髪を気にして、いつも帽子をかぶっている。悪趣味な赤紫の平らなキャスケットを。
体も瞳もほっそりとしていて、手はいつも震えている。年の割にハキハキとした口調だったけれど、使う言葉がどこかおかしかった。
彼は一つ一つの部屋を訪ねては色々な話を聞いてやった。そして他の隣人たちの話をしてやった。「あなたの部屋の隣には、人が住んでいるんですよ」そうしてちょっとずつ隣人たちは他人に興味を示す。そうして交流の輪が広がっていく。
マンションの一階ロビーで宴会を開いたのも彼だ。それ以来、隣人たちはマンション中の人々をかき集めて宴会をするようになった。飲み物は何でもよかった。隣人たちが集まることが重要なのだ。
ケンジントンの隣人たちはこの男のことを「アラさん」と呼ぶようになった。尊敬を込めて。アラさんは人が良いだけでなく、知識も豊富だったのだ。
「ワタシはとてもエリートだったんだ。自分で言うけれど」
恒例となった宴会で、ウーロン茶を飲みながらそうアラさんがぼやいた。顔を真っ赤にした青年が帽子をとることを勧めたが、アラさんはほほ笑みながら首を横にふった。
「でもねぇ、うんざりだ。虚しくて、仕事も止めた。途中になってから」
淡々とした口調だったけれど、ごくりとウーロン茶を一気飲みした姿からは怒りが感じられた。話を聞いていた中の一人が、空いた紙コップに素早い動作でウーロン茶を注ぐ。
「全てが知りたかったんだ。昔の夢だ」
真っ赤になった青年が、少し焦点の合わない目でアラさんをとらえる。
「それじゃあ、アラさん。ねえ、あなたの今の夢を教えてください」
アラさんはシワだらけになった顔を、震える手でなでた。たくさんの月日が経ってしまったことを実感するような仕草だった。
「地道に働いて、幸せな家庭を築くのが夢かな。遅すぎた。でも手遅れじゃないとワタシは思う」
青年がそれを鼻でせせら笑った。しかし、周囲の非難めいた視線を感じ、慌てて頭を下げた。当の本人は気にした様子もなく、細い目をで青年を見つめる。青年の目は夢を見たままだった。
「でも、思うんです。エリートのままなら。そう思いませんか?まさに一変ですね。マヌケじゃないか!まるで」
意気込んでそう言った青年から視線を外し、アラさんは手に持っていたウーロン茶を眺めた。我慢できず、青年を非難する声が次々とあがる。
「疑問に思う。それができる人は賢い」
そう言ったアラさんの声は騒がしい周囲でかき消された。けれど、会話に混じっていた人々を静かにするには十分だ。全員が口を閉ざしたのを確認してから、アラさんはまた口を開いた。
「シビアな世界はとんでもなく非生産的で。ワタシは全部知ろうとした。それだけなんだよ。そうしたらここにいた。無理に頼みこんで」
同意を求めるように青年の顔を見たが、彼は小さく首を傾げただけだった。アラさんは寂しそうにほほ笑んで、ウーロン茶を一口飲んだ。