Kensington:生かし愛

2009-01-28
Kensington

Kensington:生かし愛

ひそひそ声が聞こえてくる。

「ああ、ほら、あの人、旦那さんに逃げられちゃったって言う…」
「お子さんもいるのにねえ」
「子供が生まれた日にいなくなったらしいじゃない」
「事故か、事件にでも巻き込まれちゃったのかねえ」

「最近は物騒だから!」

母親はそんな声を耳にいれないように、子供の手を引いて早くその場から離れた。

「ママ、わたし、平気だよ」

心配するように娘がそう言うのを聞いて、母親は何とも間抜けで、惨めな思いを噛み締めた。それすらも聞こえていないと言うように、母親は娘のマフラーを巻き直す。

「ほら、寒いでしょう。きちんとマフラーをして。久しぶりなんだから、綺麗な格好をおばあちゃんに見せなさい」

そう言って娘の前髪をなでつけると、「大丈夫だよ、もう、わたしがやるって」と嫌そうな顔をして母親の手を払いのけた。それさえも成長の証なのだと、母親は誇らしく思えた。父親がいなくとも、子供は立派に育つものだ。自分自身のことは惨めで仕方がないのに、娘のこととなると彼女は急に胸を張りたくなる。

「おばあちゃんもおじいちゃんも、元気かなぁ」
「元気に決まってるじゃない。昨日あなたも電話したでしょ?」
「そうじゃなくって。パパ、見つからないんだね」

母親はその言葉をきれいさっぱり無視してみせた。その後も、2人は黙ったまま歩き続けた。そんな気まずい空気が吹き飛ばされたのは、祖父母の家のチャイムを鳴らしてからだ。老人の2人暮らしだと言うのに、その家は空気まで明るく輝いているようだった。

「ああ、いらっしゃい。ちょうどいいタイミングね。ピロシキ食べる?」
「お久しぶりです。ピロシキ、この子も大好きなんですよ、頂きます」
「久しぶり。元気にしてたぁ?」

まるで友達と話すような娘の口ぶりに、母親は軽くたしなめながら、笑った。祖父母も太陽のように大きな声で笑う。空気に一層彩りが添えられたようだ。そこにいる全員が気付いていた。そこには一点の影がある。小さな、けれど決してとれないシミのような存在が。

「あの子のことは諦めた方がいいんだ」

娘が眠ってから、祖父母と母親はひっそりと話し合った。最初はただ、ダラダラと昔話に花を咲かせていただけだった。昔からあの子はちょっと変わっていた。でもとても魅力的な青年だった。あなたとあの子はお似合いだった。写真一枚も残っていないのが残念だ。娘にも見せてあげたかった。あなたのパパはこんなに素敵なのよって。孫にも教えてやりたい。私たちの息子はこんなに立派だったって。

あの子は、生きているんだろうか。

祖母がぽつりとそう呟いた時、祖父がはっきりと、まるで断罪するように吐き捨てた。諦めろ。何度もそう言った。決して忘れろとは言わなかった。

「写真も、何にも残していかなかったなんて。あの子は親不孝者ですよ。こっちは思い出にもすがれやしない」
「戦場に行って、どっかおかしくなったのかもしれない。心の優しい子だったから、耐えられなかったんだ」
「でも、あの人はそこで命の尊さを知ったと言ったんですよ」

そこで3人はシン、と静かになった。それぞれ思うことがあるのだ。

「生きているかもしれない」

そうしていつも話はそこに行きつくのだ。探しに行くつもりはないくせに、死んでいるとも思わない。自分勝手な希望だけを、姿を見せない彼に押し付けた。わたしは、べつに、へいきなのに。娘はドアの向こう側で息をひそめながら小さくそう呟いた。思い出話に浸っている彼らには、そんな娘の声も姿も気付かれやしない。娘は幼いときから、こうやって小さな会合に参加し続けていたのだ。見えもしない父親の姿を思い浮かべる母親と祖父母を、半ば軽蔑するように。

「わたしは、どうだっていいのに。知らないパパは、他人よりも遠い存在なのに」

夜中の小さなヒソヒソ話以外で、父親の話を聞いたことがなかった。そこで話される父親は、とても立派な人物に思えた。どんな人だろう、と娘はいつもドア越しに夢想するのだ。しかし、どうしても見たいわけじゃない。別に一生会えないならそれでもいい。

そこまで思って、娘はハッと気がついた。自分も、軽蔑する彼らと全くの同種であることに気付いてしまったのだ。 あの子は、と言い続ける3人の姿が、まるで醜いもののように見える。娘は込み上げてくる嫌悪と吐き気を抑えながら、そっと寝室へと戻って行った。

テーブルには5人分のイスがあった。もうじき、あの真夜中の会合に彼女も参加するのだろう。そして残る一つの空席は、消えてしまった彼女の父親のためのものだ。娘は我慢できなくて、そのままトイレで吐き出してしまった。ピロシキが、ザアザアと水で流されていく。彼女はそれをぼんやりと眺めていた。