Kensington:神様が呼んでいる

2009-08-31
Kensington

Kensington:神様が呼んでいる

電車に揺られながら、あり得ない速度で流れる建物を青年は眺めた。きっちりと着込んだスーツは暑苦しく、動きにくい。仕方がないか、と思いながら吐き出されるように駅のホームに降り立った。空気が悪く、すぐさませき込んだ。周囲は汚染された空気にも慣れているような顔でせかせか歩いていく。

改札を出て、一番大きな通りを歩く。自転車が何台も行き来し、大きな声が飛び交った。屋台では必死に客寄せを繰り返す。

退屈だよ、とつぶやきたい気分だった。しかし、彼のその言葉に応えてくれる者はどこにもいない。誰もいない。

ふと、学生時代を思い出した。青年はとても優秀な生徒で、あらゆる分野が専門だった。彼の友人は大げさに笑いながらよく彼をからかった。

「コウ、君は優秀な生徒じゃない。優秀と言うのは、僕のことを言うんだ」

コウが無垢な顔でほほ笑みながら「そうかもね」と聞けば、彼の友人はとびっきりの笑顔でこう返すのだ。

「だって君は優秀すぎるんだ!」

そう言ってゲラゲラと下品に笑う友人を、コウは決して嫌っていなかった。そうかなあ、と曖昧に笑いながら二人は役に立つかも分からない理論について語り合うのだ。

小さな頃から、何かを学ぶことが楽しくて仕方が無かった。何も知らないでいるということが苦痛でならなかった。コウは一番が欲しいわけじゃなかった。気がつくと一番になっていただけだ。彼はただ、全てを知りたかっただけなのだ。

だから両親が望む通り、国で一番賢い学校へ通い、進学した。しかし最後に行き着いたところは会社だった。同じような服をまとい、同じ場所で同じようなことをして動く。そこもそれなりに面白かった。世の中の歯車が、そこではギシギシと軋みながら回転していた。

しかし、そうしている内に気付いた。際限無い知識、有限の命。全てが無駄であるかのようにコウには思えた。どんなに頑張っても、何も理解できないまま死んでいくのだ。

仕事にも遣り甲斐を感じられなくなっていた。稼ぐことに意義を感じられない。死体のようだ、とコウ自身思う程だった。

あの頃が一番楽しかった。傲慢でも、高慢でもなく、ただ純粋に全てを理解していると思っていたあの頃が。幸いにもそう勘違いしていた頃が一番楽しかった。

「全然足りない。まだまだ僕は何も知らない」

カバンを抱えながら、細い道を歩く。少しばかり苛立っているようにも見える。コウはそのまま細い道を歩き続けた。時折、路地裏でうずくまる人々が物乞いをするかのように腕を差し出してくる。細くて、骨のような腕だった。コウはそれを振り払い、ひたすら歩いた。

中には引きずり込もうとしているのか、彼のカバンやら腕やらを掴む者もいた。コウはひたすら腕を動かし、しまいには走り出した。言い訳するようにコウは叫んだ。

「時間が足りない!全然足りない!全て知りたいんだ!もっと知りたいんだ!」
「病気だ!」

痩せ衰えた人々が口々にそう叫んだ。中には指差す者もいた。コウはまるで断罪されているような気分になり、ゆっくりと走るのを止めた。ぼんやりと、空を見上げた。薄汚れている。

「許されないだろうな、でも構いやしないだろうな」

何でも知りたがる彼は、今日が西暦何年の何月何日なのか分からない。そんな簡単なことさえも分からなくなっていた。ぽつりとつぶやいた言葉に反応する者は誰もいなかった。