Kensington:神様は嘲笑う

2010-01-16
Kensington

Kensington:神様は嘲笑う

何かから逃げ去るようにひたすら歩き、細い路地へさしかかってからようやく動きを止める。くたびれたスーツでコウは空を見上げた。ビルの隙間から見える空はちっとも偉大ではない。薄汚れた、狭くて息苦しい空だ。路地裏の壁によりかかり、コウは小さくため息をついた。

「ああ、そういうことか。そういうことにしてしまうのか。上ってやつは」

疲れて疲れて疲れ果てた末にコウは会社を辞めていた。雑踏も罵詈雑言も押しのけて、ひっそりと姿を消した。行くあては無い。手にしたのは皮肉にも仕事で使っていたカバン一つだった。着ていたものはスーツだった。ふらふらしていると旅の一座から声をかけられた。行くあてが無いと呟けば、芸人たちはついて来いと簡単に言い放つ。旅芸人など、とっくの昔に廃れていた。

彼らは文字通り、物珍しさに人々の足を止めるのが精一杯だった。彼ら全員が黒髪でスーツを着こなしていたら、きっと誰も見てはくれない。彼らの髪はピンクや黄緑だったし、その上スーツなどではなく、おどけた衣装を身に着けていた。しかしコウは黒髪で、スーツだった。物珍しさにコウは勧誘されたのだ。

そこでふとコウは少し気の弱くなった父親と、少し体格の良くなった母親が心配になる。しかし結局は彼らから非難の目を向けられるのが嫌で逃げ出した。そんな心配事も道化じみた彼らと生活を共にしていたらどうでもよくなった。

彼は名前を新たにし、紳士のピエロとして生活していく。案外楽しいものだった。凝った手品の類はできなかったが、難しい理論や思想を面白おかしく語れば皆が喝采を送り、小銭を投げる。物珍しいものは、ただそれだけで価値がある。知識は誰にでも与えられているものだが、それをわざわざ暇潰しに利用する者は少ない。

彼はこうして芸人として定着しつつあった。しかし、学者としての側面だけは決して忘れなかった。彼は行く先々で大量の本を読み、それよりも大量の人々と会話をした。人の良い性格が功を奏して、老若男女問わず様々な人種から話を聞くことができた。その上、学生の頃よりも効率良く、膨大な知識を得ることができるのだ。彼は新しい人生に満足していた。

ただ一つ問題だったのは、様々な言語を習得していく内に正しい母語を忘れてしまった。異国の他人とは流暢に会話をする彼だったが、仲間内では訛りとも呼べないような酷い言葉で会話した。よくそれを仲間からはからかわれた。それさえも望んだ通りだ。望んだ通りに、望んだものを知ることができる。まさしくかつての彼が望んでいたことだった。そして、彼は気付いたのだ。全部を知りつくした後で、自分が欠陥品であることを知ってしまったのだ。

「戻りたい」

彼はそう言って芸人仲間にぼやいた。青い髪をサラサラと風になびかせながら、芸人仲間は呆れた声で返事する。

「無理だろうよ。誰も彼も許してはくれないよ。だってアンタってばすごく無様に逃げ出したんだから」
「そう、そうだ。完璧にそうだ。だから、また逃げ出したい。それでいい。気付いてしまったから。そうして終の棲家にする。そこを。そうすべきだった」

うん、うん、と芸人仲間をうなずいた。文法の乱れた彼の言葉には慣れっこだ。ほとんど寸分の違いもなく、その意味と意図を理解できた。仲間は髪を撫でつけながらまた笑った。

「それがいいなら、そうしたらいい。おあつらえ向きのマンションを紹介してあげるよ」
「そうする。うん、とてもありがとう。良い人だ。君もいつか気付けるといい。幸せはそういうものだ」
「そういうものか、ふうん。うーん、アンタも馬鹿だなあ」

そうして黒髪の道化紳士は逃げ出した。今度は堂々と荷物を片手に、残った片手で芸人仲間に手を振って。むしろそれは旅立ちに近かった。恐らくはその場にいた全員がそう思っていたはずだ。しかし、それを口にするものは誰もいない。芸人たちは口々に「道化紳士が逃げ出した」と言って回った。嘆くことも寂しがることもできない彼らはそうやっておどけるしかなかったのだ。