Kensington:愛しい愛しい僕だけのイーハトーブ

2011-01-22
Kensington

Kensington:愛しい愛しい僕だけのイーハトーブ

双子が「裏切り者」とつぶやいたのは真夜中のことだった。今日もいつものように、マンションの一階ロビーで宴会を開いたのだ。

いつもと違ったのは、何時間も隣人たちの中心にアラさんがいたことだ。ほんの数分だけ、管理人がのっそりと姿をみせたことだ。目深にかぶった青いニット帽、全身を包む白い毛布を彩る黒髪。無礼講とばかりに騒いでいた隣人が一気に大人しくなる。

まるでそれを待っていたかのように、管理人はアラさんの側にやってきた。隣人たちは微動だにしない。誰もが管理人の登場に驚き、様子を伺っている。アラさんは悪趣味なキャスケットを少しだけ持ちあげた。いつも通りの和やかな表情だ。左手の薬指には、シンプルな造りの指輪が輝いている。

「おめでとう」

中性的な声で管理人はそう言った。アラさんは普段と変わらず、優しい笑みで一礼してみせた。彼は今日、ケンジントンの隣人から抜け出すのだ。ある女性と婚約し、町の郊外に小さな家を借りた。そこで彼らは生きていくのだ。入居者が後を絶たないこのマンションでは、退去者は珍しい。

深夜、宴会が終わってひっそりと帰ろうとしたアラさんに向かって、パジャマ姿の双子は「裏切り者」とつぶやいたのだ。彼女は当然のように宴会には参加していなかった。エントランスの手前でくるりと彼が振り向くと、大きな冷たい目がこちらを睨みつけていた。

「裏切り者」

再び、彼女はそう言った。

「そんなわけではならないけども」

妙な言葉遣いは相変わらずだった。アラさんは冷たい人形のような双子を前にしてもにこりと笑ってみせた。

「出ていくなんて。出ていくなんて」
「きっと不幸な目にあうよ。きっと幸せになんてなれやしない!」
「それでも、ワタシは」

語気を強める双子の言葉を遮って彼は答える。穏やかな表情。

「それでも、ワタシは出ていくよ。ここは捨てるべきものを捨てられないものの住みかだ」

そう言って寂しそうに手を振った。彼の足は真っ直ぐエントランスへと向かっている。双子は立ち去るアラさんをただ目を丸くして見つめ続ける。まるで彼の言葉が異国語であるかのように、理解できていない顔だった。

「ライラック、君たちは寂しいこどもだ。いつか、ここから出ていかなくてはいけないよ。ここはシェルターじゃない、時間は進んで行くんだ。留まることは、難しい」

ドアを押し、外の風がふわりと入ってきた。温くもなく、寒くもない、何とも言えない風だった。双子の前髪がさらりとかすかに揺れる。

「さよなら、マゼンタとフクシン。いつでも遊びにおいで」

そう言って笑ったアラさんは、もう振り返ることはなかった。真っ暗な闇の中に、何の余韻も残すことなく姿を消す。後に残された二人の双子は、憎しみの表情でただ立ち尽くしていた。