路傍の恋

2012-10-20
story

路傍の恋

忘れもしませんよ。そりゃアね。

私はしがないお手伝いでして。

多忙な旦那様の代わりに、私が坊ちゃんをお世話していたんです。奥様は私が勤め出してから二、三年経った頃に亡くなられました。何の御病気だったかは、エェ、分かりません。けれど、元々病弱な方だったそうですよ。

坊ちゃんはそんな奥様の性質を受け継いだようでした。

生まれつき眼を患っておりまして、誰かが側にいなくては散歩することもままなりません。全く見えぬわけではないようですが、どうやら動いているものを眼で追うことが困難なようでした。それに加え、体が弱く、風邪で何度も入退院を繰り返しましてね。

あの頃のことは忘れもしませんよ。坊ちゃんが七つの頃です。蒸し暑い夏にね、やはり坊ちゃんは体調を崩されまして、ひと月程入院していたんですよ。ようやく退院と言う時の話です。その頃には秋の気配も感じるようになっていましたから、坊ちゃんと私は歩いて帰路についたのです。

ふと祭囃子が聞こえてきました。近くの神社でお祭りがあったんです。坊ちゃんはそれを妙に気にされていましたね。大人しい子で、いつもは部屋で図鑑やら何やらを読みふけっていますのに。その時は珍しく駄々をこねて「行きたい」と仰ったのですよ。

子供らしいそんな我儘を、どうして無視できましょう。私はにこにこしながら頷きました。お薬代として、旦那様からお金を多めに頂いておりましたから、それで何か買って差し上げようと思いました。生憎、私は一銭も持ち合わせておりませんでしたので、坊ちゃんにはそれで勘弁して貰おうと言う腹積もりでした。

坊ちゃんはある露天商のところで足を止めました。怪しげな、まさに浮浪者と言った風な男が青いビニルシートの後ろに腰掛けておりましたが、夏祭りでは見慣れた光景でした。

「これが欲しい」

坊ちゃんがそう言って指差したのは、石ころでした。厚紙で作られた札には『ジュエリィ』とありますが、宝石の類には全く見えません。坊ちゃんの掌に収まる程の大きさで、四角い形状を維持しているものの、角は丸みを帯びています。色は黒みがかった光沢のある青ですので、何かの原石であると言われれば騙されてしまう人もいるかもしれません。

当然、私は止しましょうと言いました。ただの石ころにしか見えなかったからです。けれど、坊ちゃんは頑として譲りません。これがいい、ここにあるこの石がいいと言って聞きません。そんな駄々をこねる坊ちゃんは初めてでしたので、困惑しつつも私はそれを買ったのでした。大事そうに小石を小さな掌に包み込んで、坊ちゃんは嬉しそうに言ったのです。

「友達ができたよ。この子、ササメキって言うんだって」

私はそれを良くある子供の現象として片付けました。そう言った一人遊びには私も覚えがありますし、手近な遊び相手を求めることは至極当然だと思ったからです。

それから坊ちゃんは机の隅に『彼女』の空間を設けました。頂き物のクッキーが入っていた箱にスカーフを敷き詰め、そこに小石を労わる様な手付きで置きました。

「ササメキはね、象牙色みたいな色した髪を高く一つにくくってるんだ。西洋人形のような可愛らしい洋服でね、青灰色の眼が自慢なんだって」
「すぐにふざけるんだよ。この前も僕の紅茶に砂糖を沢山入れたんだ」
「僕の目になってくれるなんて言うんだ。ササメキはとても良い子だよ」

こうして時折、坊ちゃんから『彼女』の話を聞きました。それを聞く度に、まるで『彼女』が実在する人物のように錯覚してしまうのです。そこにいるかのように坊ちゃんは振る舞い、そしてお話されました。ただただ、坊ちゃんの想像力と表現力の高さに私は脱帽するばかりです。

恐らく拍車をかけたのは私の行動なのです。いつからか、私も『ササメキ』を坊ちゃんのご友人のように扱いました。朝食時に「午後はササメキと遊ぶよ」と坊ちゃんが言えば、頃合いを見計らって二人分の紅茶をご用意したものです。旦那様の不在が続いた頃でしたので、坊ちゃんの慰めになればと思っての行動でした。

しかしそれが青年とも呼ばれる時期まで続くと、さすがの私も不審に思うようになりました。

体調の良い時ですら部屋に籠り、『ササメキ』と談笑しているのです。

「お前はいつまでも姿が変わらない。僕の方が随分大人になってしまったね」

しみじみと小石を見詰めながらそう仰る坊ちゃんを見て、何か心の病に違いないと思いました。そしてそう言った疑惑は私の中でどんどん大きくなっていったのです。坊ちゃんの瞳を見て、私はハッとしました。あの小さな石を見詰める目付きが変わっていることに、どうして私は気付けずにいたのでしょう。

あれは間違いなく、恋に落ちている瞳でした。

旦那様に全てをお伝えすべきかどうか、私は非常に悩みました。『ササメキ』が無害であることは私がようく分かっておりましたし、坊ちゃんもそうした空想に浸っている時以外は、至って普通なのです。外へ出ることに関しては非常に消極的でしたが、理知的な好青年へと成長を遂げました。旦那様もそれを誇りに思っておられます。

私は何も言わず傍観することに決めました。もしも坊ちゃんの患っている病が恋であるなら、長続きはするまいと思いました。寂しさが高じて、あのような石ころに入れ込んでしまったのでしょう。坊ちゃんにもっとご友人が増えれば、そのような熱病はすぐに収まるものと思っておりました。

しかし、坊ちゃんはますます病弱になり、部屋に籠ることが多くなってまいりました。そして、『ササメキ』との逢瀬は途絶えません。坊ちゃんの瞳に宿る熱はますます燃え盛っているように見えました。そうして、とうとう恐れていた事が起きたのです。

坊ちゃんの十八の誕生日でした。お祝いの為に、旦那様は夕方頃には御帰宅されたのです。私は旦那様を手早く出迎え、すぐに御馳走の用意に取り掛かろうとしたのですが、旦那様が話があると言って呼び止めました。それがあまりにも嬉しそうだったので、私もつい歩みを止めて旦那様に向き直ります。

「あの子に、婚約者を紹介しようと思うんだ」

旦那様にとっては嬉しさ余っての雑談だったのでしょう。しかし、私にはそうは聞こえませんでした。私はもはや旦那様の言葉を耳に入れてはおりません。ただただ、『ササメキ』のことが頭に浮かびます。坊ちゃんがあの石ころの呪縛から逃れるきっかけになるのであれば、これほどめでたいことはありません。しかし、私には嫌な予感がどうしても拭い去れないのでした。

旦那様の切り出し方はとてもさりげなく、自然でした。坊ちゃんは唐突なそれにただただ眼を丸くし、旦那様と私を交互に見詰めておりました。私はまるで母親のような気持ちで、微笑みながら頷いてみませした。私が全て承知の上だと理解すると、坊ちゃんは驚愕から嫌悪へと表情を変貌させたのです。

見知らぬ坊ちゃんの表情に、私も旦那様も口を開けて呆然とするしかありませんでした。

「なんて非道いことを仰るんだろう。僕にはもう愛しい人がいるというのに」

私は、その時の坊ちゃんの瞳に不吉なものを覚えました。何故でしょう、あの小石にすらそのような気持ちを抱いたことすらないのです。私は段々と理解しました。囚われているのはあの小石の方だったのです。

何もご存じでない旦那様は、それは誰だと優しく問いかけます。恐らく婚約を無理強いするつもりはないのでしょう。坊ちゃんに良い人がいるのなら、その人と婚約すればいい。そんな風に思っていたに違いありません。

坊ちゃんは無言で席を外し、部屋から例の石を持って参りました。嬉しそうに、気恥ずかしそうに、『ササメキ』を旦那様に紹介したのです。

「ササメキも、僕も、いつか言おうとは思ってたんだ。けれど、恥ずかしくて言えなかったんだ」

それはそれは幸せな光景でした。

相手が人間であれば、この祝いの席も一層盛り上がったことでしょう。けれど、坊ちゃんの言う相手はただの小石なのです。これには流石に旦那様も激昂されました。こちらも、私には馴染みの無い旦那様でした。

「許さない」、「今すぐに捨ててこい」、「狂ったか」。旦那様はそう仰っていたように思います。私はただ、純粋に傷付いたような表情で凍りついた坊ちゃんの顔ばかりを見ていました。坊ちゃんは旦那様の言葉に反論することなく、がっくりとうなだれて退席されました。恐らく、二人の仲を認めてもらえないことを察したのでしょう。

旦那様も怒りが収まらないらしく、テーブルを握り拳でだんっと叩くと自室へ戻ってしまわれました。テーブルが揺れた拍子に、コーヒーが零れ落ちます。真っ白で皺一つないテーブルクロスに茶色い染みがじわじわと広がっていきました。

そのおかげで私は放心状態から抜け出すことができたのです。早くしなければ汚れが取れなくなってしまう。私はすぐさま布巾を掴み、丁寧に汚れをふき取りました。テーブルに置かれている、まだ温かさの残る食事はほとんど手つかずでした。せっかくのお祝い事が台無しになってしまったことが、私には何よりも悲しく思えました。

翌朝、坊ちゃんはどこかへ姿を消してしまわれました。

いつ頃いなくなってしまわれたのかは誰にも分かりません。まさかこんなことになろうとは旦那様も思わなかったようで、大変な騒ぎになりました。けれども、一向に坊ちゃんは見つかりません。無責任に、どこかで野垂れ死んでいると言う者もいました。一週間が経ち、そしてひと月が過ぎると警察も見るからに諦めた様子でした。それでも諦めきれない旦那様は手を尽くして坊ちゃんの行方を探しました。

「病弱なあの子が、一人で遠くまで行けるはずないのに」

生死さえも不明のまま、ただ無駄に月日が過ぎていきます。狼狽し、憔悴しきった様子の旦那様はひどく老け込んで見えました。まさかあの晩が今生の別れになるなんて、誰が思うでしょうか。私は温かい紅茶を用意しながら、心の中で反論していました。

坊ちゃんは、一人ではないのです。家出ではないのです。

私は坊ちゃんの不在に気付き、真っ先に『ササメキ』の部屋を確認したのです。そして、例の石がないことに気付きました。

そう、坊ちゃんは駆け落ちしたのです。『ササメキ』と共に、許されざる恋を貫く為に出て行ってしまったのです。

私はこの事を誰にも言わずにおきました。それを誰かに告げたところで、私の気が狂ったと思われるだけでしょう。それに、坊ちゃんの行方が分かるわけでもないのですから。 ただ、人でなしの恋を育む坊ちゃんが哀れで哀れで仕方がありません。

けれども、きっと坊ちゃんは生きています。そしてきっと幸せでしょう。あの恋が許される土地がどこにあるのか、私にはさっぱり分かりません。けれど、海を越えた向こうのお国にならあるかもしれません。『ササメキ』が坊ちゃんの眼の代わりとなって、二人仲良く終の棲家を見つけられるよう、私はひっそりとお祈りを捧げたのでした。

恋歌いの石参加作品