敬愛すべき交響曲第5番

2008-06-29
Arcana

敬愛すべき交響曲第5番

僕の通学路には大きな洋館が建っていた。通称、魔女の館だ。そこら中に色彩豊かなバラが咲いていて、ツタは蛇のように這い、バラのトゲがあらゆるものの進入を拒んでいた。

そのくせ裏門にはツタもツルも、バラさえも姿を見せず、誘惑するように扉が開いているのだ。明らかに何者かが出入りしていた。まだ子供の僕らにとって、そこはまさしく魔女の棲む屋敷だった。

その上「バラの亡霊」が出ると、仲間内ではもっぱらの噂だ。赤いバラが多いのは、亡霊が捕まえてきた人間の血を水代わりにやっているせいだとか。バラの亡霊は魔女の手先で、魔女は他にもたくさんの化け物を手懐けているらしい。

「なぁ、根性試ししようぜ」

クラスの悪友がそう持ちかけてきたことがあった。手にしているのはインスタントカメラだ。僕はこのとき確かに嫌な予感がした。ぞおっと、背中から湧き上がる何かを、本当に感じたのだ。もしかすると、運命が扉を叩いたのかもしれない。どうかすると、そのまま中へ入ってきたのかもしれない。僕はその予感をそのままにし、インスタントカメラを手に取っていた。

「いいな、撮った枚数を競うぞ。一部屋につき写真一枚で1ポイント。誤魔化すなよ。魔女か亡霊の写真が撮れたら2ポイント」

悪友がそう念を押しながらカメラを手渡した。

「分かってるよ」

僕は短くそう返事をすると、裏門からバラの館に入っていった。悪友たちはニヤニヤとしながらそれを見守っている。恐らく、彼らはこの根性試しに参加する気など無いのだ。いじめと言うほどではないが、よく僕をからかっているから。それでも、僕は屋敷へ入った。魔女か、亡霊が僕の運命を変えてくれると信じていたからだ。

裏門から玄関へ続く道は意外にもきれいに整備されていた。やはり誰かが手入れをしているのだ。僕は右手に持っていたカメラを強く握りしめた。何かがいるのは確かで。僕は大きな玄関の扉を見上げた。ドアノブをつかんで押してみてもビクリともしない。僕は上半身を押し付けるようにして屋敷の中へ入っていった。

「チャイムが見えないのかい。マナーのなっていないゲストだね」

ティーセットを両手に大型の女性が階段をゆっくりと降りてきた。真っ黒な肌、大きなお腹、灰色っぽい髪。派手なピンクのワンピースはどこかハワイアンだ。目の前までやってくるのを、僕は呆然と見つめた。そして驚きで半ばパニックになりながら、その姿を見るなり叫んだ。

「魔女だ!」
「子供だからって許されると思うんじゃないよ」

そう言って魔女はゲラゲラと笑った。低い、地の底から響くような声で。インスタントカメラを落としたのにも気付かず、僕はそのまま元来た道を走り去ろうとした。さっと扉の方へ向き直ると、そこには天然パーマの少年が立っていた。眼の色はバイオレットだ。僕は叫ぶこともできず、その場にしゃがみこんだ。こいつはバラの亡霊だ。そうに決まっている。

「Aloha、この子は怯えてるんだ」

亡霊はそう言って僕の目の前でかがみこんだ。魔女はその横に立ち、呆れたようなため息をついた。僕の血を奪う気なんだ。僕は頭がぼんやりしていくのを感じた。

「普通、怯えるのはこっちだろう。ガキだろうと、不法侵入に違いはない」

「知らないのか、この屋敷は魔女だか怪物が出るだかで有名なんだ。地元の子供が肝試しに入ってくるのも、グリズリーみたいなおばさんを見て魔女だと叫ぶのも無理はないさ」

そう言って亡霊が魔女の方を見る。魔女は浅黒い頬を真っ赤に染めて、ヒステリックに叫んだ。

「そんな場所に人を招いていたの?最低だね!」

「ここの家主は失踪してるんだよ。誰も気にかけない家だ、滞在するには最適だろ?それともAlohaは犯罪者になりたいのか。おれはごめんだ。野宿するのも、車で窮屈に寝るのも」

亡霊がそう返すと、魔女は何も反論できず言葉につまった。そして小さな声で魔女はぶつぶつと悪態をつき、そのままティーセットを持って去って行った。残された僕の頭を、亡霊がそっとなでた。僕はその顔をまじまじと見返した。優しい表情をしている。鮮やかなバイオレットに引き付けられた。こんな目をした人間は見たことがない。

「ここには二週間前から住み着いてる。残念ながら、化け物じゃないよ」
「うん…何となく分かった。普通じゃないってことも分かった」
「賢いガキだな」

そう言って少年はにやりと笑い、僕の頭をなでていた手を目の前に差し出した。とっさにその手をつかんで握手をすると、「スペイン人じゃないが…」と言って少年が名乗った。名前はAmor。スペイン人ではないらしい。