深層の穴

2006-09-29
story

深層の穴

僕は深い深い暗闇の中にいます。誰も彼も行き届かないような、暗い暗い闇の中です。深海魚さえも、行く事の叶わないような。悪魔でさえも、行く事をはばかるような、そんな場所です。 幾千年も昔の光さえ届かない、この空間で僕は一人ぼっち。

影は僕の前にいる。僕は影に支配される。お前の進む道はこちらだと、指図されているのです。 つまり、僕の後方には大変まばゆい光があり、僕の前は影だらけなのです。紛れも無い、僕自身の影によって、僕の全ては閉ざされているのです。

なんと悲しいことでしょう。僕はそうして悲しいことにも気が付かないのです。 僕の存在全てが悲しみそのものであると言うのに、悲しみである僕はそんなことにちっとも気付かず、見当違いの方向へ向って悲しい悲しいと言うのです。本当の悲しみに気付いてもいないのに、僕は悲しいと言うのです。僕にとって、それだけが唯一の幸福と言えるでしょう。

時間の単位も明度も濃度も方位も全てが無用でした。僕は盲目になってしまったかも分からず、どれが感覚と言うものなのかも分からなくなりました。一体どれが僕の体で、一体何が空気なのかさっぱり分かりません。この感覚は、恐らく誰にも分からないことでしょう。それは、世界にあるもので例えるなら、まるで死のようでしたから。

僕は誰なのでしょうか。お気付きの方もいらっしゃるでしょうが、僕は僕以外の名称を知りません。他人とは一切無縁の空間ですから、僕が以前どう呼ばれていたかなど、思い起こせるはずがありませんでした。ここではアイデンティティさえも打ち砕いてしまうのです。

それでは、ここはどこなのでしょうか。神の国なのでしょうか。無駄に幻想を抱く僕らに、知らしめるための空間なのでしょうか。ひどく、冷たい。もはや暗いと言う感覚さえも失ってしまいそうでした。じわじわと侵食されていくようです。ここでの常識が、僕に浸透していくようでもありました。

少しずつ、何かが欠けていくのには気付いていました。ですが、今となってはその感覚さえもうっとうしい。そして懐かしい。近い将来、僕は全てを亡くすはずです。灯火のような儚い確信が、僕にはありました。

僕の内も外も神の国へ還っていきます。それと知らずに。この深い暗闇の一部になるのかもしれません。残ったわずかな僕の思考は、延々とそれを考えては忘れて行きます。そろそろ、僕としての僕の終わりがやってくるのでしょうか。

僕はそう思った瞬間、月に向かって遠吠えをする獣になりたいと思いました。一生見えない月に向かって、何度も何度もここで吼え続けるのです。喉が渇いて、枯れて、息も絶え絶えになって、最後にはぱたりと倒れて死ぬことは、とても自然だと思ったのです。世界の一部となって死ぬ事は誇らしいことでしょう。生きることは死の準備期間であり、生と死は等符号でつながります。それはとても心地良いことでしょう。全ては、そうやって死んでいけない僕の、悲しい遺言なのでした。