運命真理(8)

2007-07-16
story

運命真理(8)

小さな女の子が走っていく。大きな庭にある、小さなイスに座り込んだおばあちゃんを見つけたのだ。彼女はおばあちゃんが大好きで大好きで、いつもおばあちゃんと一緒にいた。

恐らく、心の遠く理解しがたい部分で理解していたのだ。老人の知識ほど有用なものは無いと。そして、それを活用できるほどに、彼女は狡猾だったのだ。子供らしい無邪気さとも言える。

「おばあちゃん、お話をして。昔の話を」

女の子はおばあちゃんのひざに飛びつくように乗りながら、嬉しそうに言った。おばあちゃんはにこりと笑い、女の子の頭をなでてやる。

「そうだねぇ、とびっきり昔の、可哀想な話をしようか」

どこの国かも分からなかった。分かっているのは、そこに海があり、青年がいて、彼に恋する蛸がいて、彼女に恋する水鳥がいたことだけ。青年はそんな蛸のことは知らない。当然のことだ。

そこで、蛸はひたすらに陸地にあこがれた。青年に近づくために、これは、純粋な気持ちからだった。水鳥は、恋する蛸のところへ時折現れた。自分の思いを告げるわけでもなく、そんな蛸の行為を忠告するためだ。これも、自分の利害を考えたわけではなく、純粋な気持ちからだった。

この、蛸と水鳥は気付かなかった。純粋な気持ちから溢れ出るものこそが、何よりの罪になることだと。最後まで、それに気付かずにいた。

いつものように、蛸は陸地を眺めていた。青年を見つけたのだ。物憂げに、海をじいっと見つめる様を、蛸は宝物を見つめるように見ていた。そして、もっと近くで見ていたい、そう思ってしまったのだ。

すっと、蛸が陸へ近づく。大きな波がくればすぐに陸へ追いやられるほどの距離へ。蛸は妙な高揚感に包まれる。いっそ陸に上がってしまおうか、そう思うほどに。

そんな彼女に、真っ黒な影が落ちる。蛸がはっと、気付いた時には、遅かった。彼女の体はぶすりと貫かれ、彼女は何が起きたのか理解する前に絶命した。苦しみも、なかった。

「大きなタコかと思ったが、小さいな。僕と彼女の2人分にはなりそうにない」

冷酷にも聞こえる声を発したのは、蛸が思い焦がれる青年だった。水鳥がちょうど飛んできて、蛸に降り注いだ出来事を理解したのはこの言葉を聞いてからだった。

一瞬、飛ぶことを忘れそうになった。蛸は死んでしまった。冷たく、細く、鋭いモリに貫かれ。即死だったんだろう、と水鳥はぐにゃりとした蛸を見つめた。けれど、青年の言葉を聞かないまま死んで良かったとも思った。彼女は青年に絶望することなく、恋心だけを持って死ねたのだから。

彼は、思った以上に蛸を愛していた。

残念そうな顔をして、青年は蛸の死体を海へ捨てた。まるでそうすることが当たり前のようだった。そしてさっさと歩いていく。水鳥は青年の姿が消えるまで、そこを動かなかった。

青年がいなくなり、周囲にも誰もいないことを何度も確認してから、水鳥は蛸の死体にとびついた。じわじわと、侵食されるように沈んでいく蛸の体を抱きとめた。水の中はひどく息苦しいので、すぐに水面にあがる。体中にまとわりつく水滴を、涙のように錯覚した。

「だから言ったんだ。死ぬぞ、って。ばかだ。本当にあんたは。ああ、ばかだ、おれも」

水鳥はぐにゃりと、一向に動く気配を見せない蛸をじっと見つめた。ぽつり、と一言「死んだ」と水鳥がつぶやく。それは単なる事実を述べただけで、ひどく冷めた調子だった。

「あんたは天国に行けただろうか。ここにいる時みたいに、迷わなかっただろうか。亡骸を抱き締めるくらいなら、罪にはならないだろうか。あんたは、いってしまったのだから、せめて」

水鳥は泣き叫びたいのをこらえて、絞り出すようにそう呟いた。誰にも聞こえないはずだった。誰も聞いていないはずだった。神様は、それを許しはしなかった。

突然、嵐がやってきた。空はいつもの色を忘れ、闇のように暗い。時々響く雷鳴は、神様の怒りそのものだった。

「許さない。私は許さないぞ。一欠けらの罪さえも、逃しはしない。許しはしない。それが秩序だ。その蛸は下さずとも天罰を受けたのだから」

神様はそう言うと、一粒の涙をこぼした。その直後だった。雷が、真っ直ぐ何の迷いもなく、水鳥に降り注いだ。聞くに堪えないような轟音で、水鳥はあっという間に真っ黒になった。抱きしめていた蛸も一緒に。

じゅう、と言う音がして、水鳥と蛸のなれの果てが沈んでいく。その体はもはやあの空の色よりも黒くなっていた。そして、その体よりも真っ暗な海の底へ沈んでいく。

神様は、それが救いだと思った。

女の子は、涙を我慢するように唇を噛んで尋ねた。

「かわいそうな話ね。いったい、誰が悪かったの?」

悲しげな、悔しげな表情をする女の子に、優しい笑顔を向けながら、おばあちゃんはそっとささやいた。

「誰も悪くなかったんだ。そういうことが、あるの。悪者が一人もいないのに、勝手に悲劇になっていくもんだ。世の中に、そういうことがあるのを、お前は忘れちゃいけないよ」