八(はち)

2007-06-03
story

八(はち)

汚泥揺らめく水の底。私はずっと水面を見つめていた。きらきらとした光が今にも降ってきそうだ。ごぽり、と空気が空へ逃げる。ああ私はあんな風になりたい。肌にまとわりつく水ではなく、空気をまとって生きていたい。

何本もある足で、水を払った。どんなに払っても水は私の体に張り付いたままだ。憎たらしい。しかし、そうするとわずかな空気が泡となる。それだけで私はご機嫌だった。ああ空が見たい。本物の空が。そう思って一気に空へかけだす。

水圧を感じたが、それすらも無視し、偽物の空を突き破った。とたんに感じる息苦しさ。それも心地よい。これが本物の空のある場所。恋しいあの人がいる場所なのだ。

「ああ、素晴らしい、素晴らしい。あの人はこれを見て育ったのね、この中で育ったのね」

感極まってそう叫ぶと、どこからやってきたのか、ふわりと水面に水鳥が着地した。

「あんたまた出てきたのか。いい加減にしな。あんたは蛸だよ、人間様に恋しちゃいけない」

「違うわ、私は愛しているの」

「ならもっとだめだ。悲しい恋にもほどがある。何だってあんたは心を持っちまったのかね」

私は水鳥のいる方へ少しだけ墨を吐いた。水鳥はたいして驚きもしなかったが、それでもぱっと空へ飛び立った。彼もあの人と同じ世界を生きている。空気に囲まれて、生きている。

「あなただって、私に恋をしているくせに。心は人間だけのものじゃないのよ。私が持っていて、何が悪いの」

水鳥はばさりと何度か羽ばたいて、また私の横に降りてきた。ちゃぷん、と水滴が何度か顔につく。太陽に照らされて、乾きつつあった皮膚が不本意ながらも喜ぶ。

「そうだ、おれはあんたに恋している。間違っていると思うよ。心は持つべきじゃない。悪いことだ。心はおれたちを死に向かわせる」

「死なない。死んでなるものですか。心は貴重な宝よ。それが良いことだって、証明できるわ」

「どうだか」水鳥は鼻で笑い、またぱっと飛び立った。またも水滴が宙を舞う。光に照らされるそれはとても美しかった。まとわりついてうざったい水も、この世界では美しいのだ。

「まぁ好きにしたらいいよ。おれはあんたが好きだけど、どうもしない。悪いことはしちゃいけないから」

そう言って水鳥は去って行った。私は彼の言葉を忘れるために、砂浜に現れるあの人を待ち続けた。日が落ち、暗くなり、また日が昇るまで、ずっと。