心理学者と囚人

2007-10-08
story

心理学者と囚人

真っ白な部屋に心理学者は囚人を呼んだ。彼の両手は薄汚れた布で隠されていた。それが何のためであるかは明白だ。そして囚人の両脇には体格のいい男が一人ずついる。

二人は侮蔑の言葉を吐き捨てる囚人をきれいに無視していた。そして囚人が暴れ出すとその大きな体からは想像もつかないような俊敏さで彼を押さえつけた。二人がかりと言うこともあって、そうされた後の囚人はとても疲労している。

心理学者は、そっとイスにかけた。一瞬、彼の瞳孔がぐわりと開かれたように見える。囚人も、その両脇にそびえる大男もそれを見ることはなかった。心理学者は、大量のファイルを広げると、「さて」と穏やかに口を開いた。

「君に、色々聞きたいんだ。今の心情とか、当時の心情とか」

囚人は心理学者にありったけの侮蔑をこめて、大声で笑った。大男はそれを咎めるような視線を送ったが、何もしなかった。ふう、と散々笑いつくしてから、囚人はイスにどかりと座った。

「あんたは、勘違いしています」たどたどしい敬語が響いた。

「おれたちが、気狂いだと思ってるんだな?犯罪なんか、真っ当な人間のすることじゃないって?」

「まさか」心理学者は肩をすくめてほほ笑んだ。「ぼくは学者だ。調査するためにいる。決め付けなんかしないよ」

「今に見てろ。お前だって、あっけなくこっち側に来れるんだぜ」

かみつくような低い声でそう囚人が言った。心理学者はそれを聞いてもほほ笑んだままだったから、囚人は余計にいらだった。大男が押さえるのも無視して、心理学者に襲いかかろうとする。それでも彼はほほえむ。囚人は聞くに堪えないような呪いの言葉と下卑た単語を連発させる。

「どうも最近の犯罪者はマナーに欠ける。ことごとく本能のような人間が増えたものだ」

心理学者はそうつぶやいて苦笑した。「君たち、彼をイスに縛り付けて。暴れられないように、そしてしばらく外で待機してくれないか」大男にそう指示すると、こくりと首をうなずいた二人は囚人がまた叫ぶのも無視して彼を縛りつけ、さっと部屋を出て行った。

「君も勘違いをしているようだ」

暴れる囚人を落ち着かせるように、ゆっくりとした口調で心理学者は話しだした。それはあまり大きな声でなかったにも関わらず、部屋中に響き渡った。

「僕が君たち側に行くことは無いよ」
「自分に限って、ってやつか?そう言ったやつをおれは知ってるよ。去年死刑になった」

「違うなぁ」

心理学者はますます笑みを深くした。「そう言うやつとは、違うなぁ」自分の指をからませ遊ばせながら、もう一度言った。

「僕は、君たちの狂気だけは理解しているよ。本能よりも深いものだ。誰でも持っている。ただ、気付かないかい?」

そうっと、ほんのわずか、心理学者は目を見開いた。囚人の一挙一動を観察するように。囚人はその視線に気づくと、あらゆる動作をぴたりと止めた。止めざるを得なかった。何をしていても観察されているようで、不愉快だった。恐ろしくなった。

「あらゆる囚人と会話してきた。中には本物がいたし、君のような偽物もいた。それでも、僕は怪我ひとつしなかった」

なぜだか分かる?とさきほどのようにほほ笑んだ心理学者にむかって、囚人は素早く首を横にふった。体を縛られたことをこのときになって後悔した。大声で外にいる二人を呼びたかったけれど、米粒のようなプライドと心理学者の視線がそれを許さない。

「君たち以上の狂気をもって、僕は会話をした。尊敬する囚人もいたよ。あふれんばかりの狂気を抑えることもなく、僕が一般人として平平凡凡の生活をしていることに。犯罪を犯してその狂気を発露することも、それに食われて狂うこともしない僕を」

心理学者はそう言ってファイルを漁り出した。しばらくするとその口からたくさんの言葉が出てくる。囚人の彼にはそれが何だか苦しいほど分かった。彼が犯した罪の、全てだった。

「狂気を持つ人間だ。それも、それを何とも思わないタイプの。とんだ矛盾、と思うかもしれないが、事実なんだよ。君たちだけの専売特許かと思っているなら、それは大きな勘違いだよ。君らが持てるものはせいぜい凶器くらいだ。狂気というのは、僕らの持ち物だから」

囚人は「僕ら」と言う言葉にとんでもない絶望を覚えた。決して知られることない罪人が、今も路上をかっ歩しているのだ。断罪されることなく、抑制されるわけもなく。何という世界だ。囚人は涙をこぼしそうになった。