ぐるりとオーディエンス
コップ一杯の水を囲って会話は成された。右から順に、気弱そうな貧弱な青年、厚化粧で表情を上手に誤魔化しているその恋人。二人一緒にいたかっただけなのに、気付いたら罪人扱い。向いには真相を見つけようとしている中年の男が二人。一人は真犯人だ。
中年の男が青年の話を聞こうと身を乗り出した。コップに青年の疲れた表情が写る。彼の両手には手錠。それすら彼女とは繋がれていない。青年は呆けた顔をして、恋人に告げた。
「飲み込んで、僕の心臓。もうまるで役に立たないと言うように。何にもいらないよと言って、何にもいらないよと言って、僕だけでいいって、僕さえいればいいって」
「悲しい夢でも見た気でいるの?ねえしっかりしてよ。そんな問題じゃ済まされない。あたしたち、だまされてるの。利用されてるのよ」
女は恋人の肩をゆすった。青年は度重なる疲労でボロボロになっていた。まともなことはわずかしか言えない。彼女への愛情だけは忘れなかった。脆弱な青年の美点だ。
「君たちの言い分は同じか」
中年の男は困ったように頭をかき、タバコ一本取り出した。「止めてくれない?禁煙中なの」厚化粧の女が途端に振り向き、厳しい口調で咎めた。恋人に触れていた手は、少し膨らんだお腹にある。中年の男はため息まじりに苦笑をし、コップの中にタバコを入れた。水面に鬼のような女の顔が写る。
「真実か嘘か判断するのはこっちですよ。それだけの判断材料をください。知っていることを、ありったけ。私たちだって事実が知りたいんだから」
もう一人の男が厳しい口調で返した。女はただうつむき、男はコップを見つめている。二人にはもう言うべきことなんて無かった。全ては二人の知らないところで勝手に起こっていたのだから。喫煙を断念した男は憐れんだ口調で言った。
「どうにも難しいな。何が正しくて、何が間違っているのか、おれたちが判断しなくてはならないなんて。それでも、事実は暴くものだ。真実を知る権利は誰にでもある」
真っ直ぐした、凛々しい瞳。もう一人の男は暗くよどんだ顔でそれを嘲笑った。
「どうでしょうね、実際。もしかすると、最初から最後まで欺瞞かもしれませんよ。悲しい真相を見つけてしまうかもしれない」
「それでもおれは真実を知るための努力は惜しまんよ」
「そうですね、あなたはそう言う人ですもの。強い人だ。扱いにくい、良い人だ」
同意するようにほほ笑んだ男が言う。そして憐れみの視線が二つ注がれたのに気付いた青年がぼそりと口を開いた。怯えたように恋人にすがりつく様はまさに子供だ。それでも、女はその手錠で繋がれた手をつかんで、震える体をぎゅうと抱き締めた。
「一生そうして指をくわえて待っていろ。真実は決して君のものにはならない」
彼を抱き締めている恋人は真っ青な顔でたずねる。「どうしちゃったの?」中年の男も同じことを思った。とうとう気が触れてしまったのかと。もう一人の男は再び嘲笑う。
「しかし、聴衆は全てを見届けることができる。結末を勝ち取ることができる。上手くいけば、望み通りの」
この中に観客がいる。たまらず舞台に上ってきてしまった大馬鹿者の。一杯のコップは全てを知っているけれど、水が注がれているため喋れない。そもそも事の始まりが人間だから、無機質である自分は口を出すべきじゃないと思っていた。