ハイムの歴史

2009-07-17
story

ハイムの歴史

私が生まれる前に、私の母の母は死んだ。 母は母を失った。 母の愛情に気付く前に失った。 母が父と出会う前だった。

私は生まれた。五番目だった。飽き飽きするどころか喜ばれた。幸せだった。 幸せだった。母は子供のようだった。無邪気に笑う。優しい手が包む。温かい背中は今でも恋しくなる。 幸せだった。幸せだった。幸せだった。幸せだった。 遊びが過ぎれば叱られた。頭をはたかれもした。 小さな物置に閉じ込められたりもした。恐ろしかった。 今では何も感じないが、当時は恐ろしかった。恐ろしかった。

兄たちともケンカをしては負けた。予定調和だったように思う。 好きな色から夕飯のおかず、何でもケンカをしては涙をこぼした。 祖父が1番の理解者だった。ひなたぼっこばかりしていた。 私はあぐらをかいた祖父の足の間に滑り込んで背中を預ける。 祖父は私を抱きしめる。骨ばかりで居心地は最悪だった。 だが誰よりも甘やかしてくれる。大好きだった。大好きだった。 大好きだった。大好きだった。大好きだった。 目も耳も悪くしていた祖父のために私たちは大きな声でいってきますとただいまを言った。今でも言った。

友達ができた。先輩も後輩もできた。 どうしていいのか分からなかった。 時々私のいない所で私を馬鹿にしているのを知っていたから。だが楽しかった。 心の底から笑い合う友達もいた。ケンカすることもあった。 馬鹿をやって教師から怒鳴られ、両親にも叱られた。だが楽しかった。楽しかった。

祖父が死んだ。当然のように死んだ。 決まり切っている風を見せながら、死ぬものかとねばって死んだ。 見えなくなっていた白く濁った眼球がぐらぐら揺れた。 魂が抜け落ちているのだと思った。 祖父の右手が天井に向かって真っ直ぐ伸びている気がした。しかしそれは今では虚構の装飾でしかない。 私は怖くなった。未知への恐怖であったか、死への恐怖だったか、分からない。 ただ逃げ出した。1番年齢の近い兄を引き連れて逃げ出した。

1番上の兄と、2番目の姉だけは焼き付けるように祖父を見ていた。それが義務なのだと後で言った。 3番目の兄は目を反らしていたが、逃げ出そうとはしなかった。父が私と兄を追ってきた。 普段は絶対に買ってくれないチョコレートを買ってくれた。私は喜んでみせた。 父も逃げ出してきたのが分かったからだ。

戻った頃には祖父は消えていた。からっぽだった。 久しぶりに声を出して泣いた。何を悲しめばいいのか考えられなかった。 どこか予感はしていた。予定調和のように思えた。悔しかったのかもしれない。 1番上の姉に向かって、祖父がどうのと泣きわめいた。 涙声で何を言っているか分からなかったはずだ。 私自身、何かを言っているか意識していなかった。 しかし、姉は泣きながら相槌をうってくれた。

祖父が燃やされた。 何も知らない小さな子供たちだけがその周りではしゃいでいる。 まだ生きているのではないか、という思考が燃やされたのは彼の骨を見てからだ。 冷たく、堅くなった皮膚を撫で、彼の傍らに花を添えたのは私だと言うのに。 祖父の皮膚が焼け焦げ零れ落ちるまで、むくりと起き上がることを期待して止まなかったのだ。

焼けた骨を見つめる。私も兄たちも泣かなかった。嘘くさくなるからだ。 3番目の兄は私が泣くと思ったらしく、ずっと私の側にいた。遠くで父に寄り添う母を見た。 ひどく距離があったが、母はきっと泣いているのだと思った。誰も近寄らない。 まるで一つの絵画のようだった。 きっと私に絵の才能があれば、その様子を描いたに違いない。 未だに覚えている。祖父がいなくなる瞬間と同じくらい焼きついている。 しかし、これもやはり虚構に彩られてしまい、事実かどうかは曖昧だ。 全てを骨壷に納めていく。

涙よりも笑顔を母は見せるようになった。 私はそれを不思議に思いながら、落ち込む兄弟たちを励ましているのだと思った。 気丈に振る舞う母の姿。嘘だった。嘘だった。嘘だった嘘だった嘘だった。母が壊れた。

きっとその時に私の世界も壊れてしまった。優しい世界が牙を剥いて本性をさらけ出す。地獄だった。 母は何もしなくなった。理解できない言葉を操り、理解できない行動を繰り返す。 私たち兄弟は泣いて元に戻ってと懇願した。母が元とは何だと問う。真理だ。 2番目の姉が、朝食を作り時々怒鳴るように私たちを起こすことだと返す。母は分かったと言った。 明日からそうすると。嘘だった。

母は言葉をなくし動きをなくし眼球の光をなくした。祖父のようだった。 時々ふらりと父の背後を無言で無表情で母は付き従った。 父はその一切を無視した。私は愛情の終わりを見た。きっともう全部終わったのだと思った。 4番目の兄が母に怒鳴り付ければ、お前は誰だと母が叫ぶ。 怒鳴った兄がボロボロ涙を流し、小さな声で死にたいと言った。 1番上の兄が4番目の兄を慰め、2番目の姉が母をなだめた。私はただ見ていた。死にたいとは不思議と思わなかったが、夜になると無性に死にたいと願った。明日には元通りになることを祈った。 3番目の兄はうんざりだと言って泣いた。地獄だった。地獄は終わらなかった。

母は全てを忘れて死体のように転がっている。死体のような人形の眼、母の眼。 思い出すよう歌ってみたが何も変わらない。懇願は無駄だった。 月にも祈ったが無意味だった。プレゼントは受け取って貰えなかった。 愚かにも神様がいないことを私たちはようやく悟った。 地獄は急に終わりをみせた。不意に母は全てを思い出し、先程までの地獄を忘れた。 私たちも真似て地獄を忘れることにした。もしかするとそれが地獄の始まりだったのかもしれない。 遺伝子が翻弄する。怯えている。怯えている。私たちは怯えている。

明日が来ることに怯えている。1番目も2番目も何を思っているか分からない。 3番目はしっかりと覚えているようで、時々神経をピンと張っている。 4番目は忘れたふりをしている。私はそれを知っている。 知っている。明日にでも壊れてしまうことを。ほころびを知っている。 恐怖で心臓がギシギシ歪むのを知っている。

私は軋んだ心臓と共に、ダラダラと生きている。結婚をし、子供が育つのを眺めながら、彼らもまた狂った心臓の持ち主なのかと苦しんだ。大きく成長し、健やかな精神をはぐくむ彼らを、嫉妬と羨望と歓喜を込めて見つめる。幸せなのだが、心臓が時折それを阻む。

老いも高まり、両親は死んだ。私はいつかのような気持ちと光景を思い返していた。ずいぶんと立ち位置が変わっていたが。妙なものだと思い、私はゆっくりとため息をついた。ようやく、肩の荷が下りた。それと共に、活力も無くしてしまったようだ。明日から、生きる気がしない。