738桜桃

2010-02-14
story

738桜桃

広場の喫煙所に、二人の男。そのすぐ近くでは献血を呼び掛ける人々が声を張り上げている。その健気な様子を、二人はじっと見つめていた。一人が忌々しく吐き捨てる。

「僕らとほとんど同じものから搾取するなんて」
「往往にして、ほとんど同じ、には大きな違いが含まれているものだ」

なだめるように返事をした男は随分と高齢で、帽子からわずかにはみ出る髪もほとんど白かった。少し恰幅の良い腹はベルトの上に鎮座し、タバコの煙と呼応するように膨らんだりへこんだりを繰り返す。目つきは鋭く、彼の過ごしてきた人生をはっきりと表していた。

その横でぼんやりとライターに手を伸ばしている男性は初老の男性よりも遥かに若々しかった。長身痩躯なその姿はいっそやつれているようにも見える。わずかに生えている髭が若々しさを根こそぎ奪っていた。眼の下にもうっすらと隈ができている彼は、疲れたと言わんばかりにスーツのネクタイを緩める。

「大変なものだね、働くってもんは」

老人がタバコを片手にそう嘲笑してみると、青年は煙を吐き出しながら愛想笑いを返してみせる。

「全くです。しかし、そういうもんです」
「我々はそんなことをしない。してはいけない」

先程と同じような笑みをくっつけて、老人はゲラゲラと笑い声をあげた。苛立ちを上手く隠しているようで、できていない。彼のタバコの吸い殻が、ぐしゃりと潰されて消える。青年は横目でそれを眺めつつ、何と返そうか思案していた。煙を二度ほど吐きだしてから、ようやく老人に向けて言葉を吐く。

「時代は変わるものですよ」
「我々は変わってはいけない。先行されるイメージを保護していく義務がある」

青年の言葉を否定するように、早口で老人がまくしたてる。わずかに苛立ちが表面化していた。老人が地面に置いてあったカバンをつかみ、中からエコボトルを取り出した。カバーがしてあるものの、青年はその中身に気付いて顔をしかめる。優越感の浮かんだ顔で、老人は見せびらかすようにそれを口にした。

「適応はするさ。日本人が着物を脱ぎ棄て、洋服を着ているように。無闇やたらと人の血液を欲しがったりしない。あそこにあるのを、こうしてちょっぴり失敬するだけ」

口に付着した赤をべろりと舐める。そうして老人はちらりと献血と大きく書かれた看板に目をやった。

「それでも、我々は日光が嫌いでなくてはならないし、ニンニクを見たら失神の一つもしてみせなくちゃあ。どうしようもない時はトマトジュースを啜らなきゃ」

にんまりと、しかし不機嫌そうに老人は早口でそう言う。カバンの中にボトルをしまうと、乱雑な手付きでカバンを地面に落とす。青年はその一連の動作を眺めつつ、「僕はトマトジュースが世界で一番嫌いだ」とつぶやいた。

ゲラゲラと下品な声で老人は笑う。

「そういう問題じゃあない。個人じゃない、全体でさえない」
「じゃあ何だってんです」

苛々した様子で青年は老人を睨みつけた。彼は朝から晩まで働きづめで、とことん疲労していた。

「大事なのは世間一般、大衆だ。彼らがそう思っているから我々は我々を認識できるのだ。記憶されるのだ、伝承されるのだ。霞のような我々が、霞のようになってはいけない」

「消えればいい。僕は嫌ですよ。人間の血を啜るなんて」

そう言って青年は携帯用灰皿を取り出して、吸い殻を放り込んだ。

「倫理観が許さない」

ぽつりとつぶやかれた言葉は小さくて、恐らくは誰も聞き取れないはずだった。そのままに出だそうとしたのだから。青年はネクタイを強く締めて、再び会社に戻ろうとくるりと身体の向きを変える。

「本能は許すだろうよ」

老人はすかさず青年の背後でそう言った。ぶるりと、青年の身体が何かで打ち震えた。