トロイメライ・マーメイド

2010-09-02
story

トロイメライ・マーメイド

むかしむかし。

薄暗い、深い深い海底で、人魚姫の童話を読んだ人魚は、「あたしならもっと上手くやれる」と考えた。15歳の誕生日にプレゼントされたそれは、魔女からの贈り物だった。顔にかかるきれいなブロンドを、白く細い指でさらりと払う。

ゆっくりとした動作で絵本をパタンと閉じて、魔女に向かって投げつける。海底にできた洞穴に座り込んでいる魔女の身体に当たった。そして跳ね返った絵本はそのまま海底へと落ちて行った。ぶくぶくと泡が海面に姿を見せる。その反面、絵本はぶくぶくと海底に沈んで行く。

海面から半身を出している人魚は俯いてそれを眺めながらも、決してすくい揚げようとはしなかった。俯き、唇を痛い程噛みしめる。

「あたしならもっと上手にやる。歩く苦痛なんか苦痛の内に入らないし、声が出なくたって振り向かせてみせる。愛する人を殺したりなんかしないし、自分を殺すこともしない」

それを聞いた魔女はへらへらと笑って尋ねる。

「それならチャレンジしてみるかい?そんなくだらない理由で人生を棒に振っていいものか、じっくり考えてくれて構わないよ」

人魚は鱗をがりと引っかいた。きらきらと雪のように鱗が海底に落下する。彼女の声には怒りに似た焦燥が込められていた。

「くだらない理由なんかじゃない。あたし、王の娘よ。人魚姫なのよ。こんな童話で侮辱されて、我慢ならない。人間如きの為に死ぬもんですか。あたしはそれを証明したいの」

ほう、と魔女はつぶやいた。そしてすぐさま口笛を吹いて、一匹のヘビを呼び付ける。小さな小さなヘビはするりと魔女の身体を伝い、彼女の耳元まで到達するとそのまま身体をだらりと垂らす。魔女はそんなヘビに向かってボソボソと何事かを命令する。

するりとヘビが魔女の身体から滑り降りる。そしてぼちゃんと海に入ったかと思うと、人魚姫は急に心臓を押さえだした。ぐう、と思いもしない苦痛に悲鳴がもれる。不意に人魚姫の身体が沈み、両手を上げてばしゃばしゃと水飛沫を上げる。ケタケタと魔女が身体をのけぞらせて笑い声を上げた。醜いそれはほとんど絶叫に近かった。

「状況が違うんだ。背負う負担も違うに決まっている。あんたは自由に歩けるよ。声だって出る。当然、歩くのは苦痛じゃない」

ぜえぜえと肩を上下にしつつ、人魚姫は魔女のいる陸へ這い上った。足はすらりとした人間のものに変わっている。身体を折り曲げつつ、疲弊した表情で人魚姫は魔女を見た。にやりと魔女は立ち上がり、ゆっくりと彼女へ近付く。そして魔女は人魚姫を見下ろした。

「ただし、あんたの心臓はウミヘビが絡みついている。簡単に言うとね、人間に恋した途端、あんたの心臓はウミヘビに食い破られてしまうよってことさ」
「そんな!」
「何だい。あんたが言った事じゃないの。人間如きのために死なないんだろう?人間如きに恋するのかい?ええ?」

そう魔女が言うと、人魚姫はぐっと押し黙った。痛みはじわじわと彼女を蝕んでいる。

「あたしは魔女で、取引はギブアンドテイクで、メリットとデメリットは大抵天秤の上に乗っている。どちらか一方しかない取引はそうだね…単なる横暴で、傾いてばかりの天秤は、ただの理不尽だろうね」

魔女はそう言って横たわる人魚姫を思う存分嘲笑った。

「ただ、あたしは悪い魔女じゃない。ちゃんと救済策もあるんだよ。あんたが人間を恋に落として、突き落としてやればいい。そうすればあんたの中のヘビはいなくなる。恋した人間の心臓を突き破る!」

慣れない足の違和感と、心臓の苦痛と、心の軋みを感じながら、人魚姫は顔を地面に押し付ける。もしも彼女が、人間に恋していたら。

幼さ由来の照れ隠しからそんな嘘をついたとしたら。
王の娘であるプライドと地位がそれを推進させたとしたら。
そうでなくても、これから出会うだろう青年に恋してしまったら。
そうでなくても、これから出会うだろう青年に情が移ってしまったら。
そうでなくても、これから出会うだろう青年に気持ちを揺さぶられたら。
そうでなくても、これから出会うだろう青年に気持ちを揺さぶられなかったら。

全ては悲劇へしか繋がらないだろう。世の中に「もしも」なんてものは存在しないのだ。それゆえに、この物語に「めでたしめでたし」も存在しないのだ。結びの言葉が存在しないのだから、この物語を終えることはできない。 そして全てが悲劇へしか繋がらない以上、もはや語ることができないのだ。