舞踏祭

2011-12-09
story

舞踏祭

空気が澄んだような気がした。

干乾びそうな雑草がどうにか命を繋いでいるような荒れ地で、男はうつぶせのままどうにか空を見上げる。丘はそれほど高くもなく、建物も何も存在していないので、行為自体はそれほど難しくは無い。

ただ、ほんの少しの動作を行うのすら億劫だった。彼はしばらく何も食べていないし、何も飲んでいない。それでも歩き続けていたのだが、今朝になって歩くことすらできなくなった。黒い髪は汚れてくすんで見え、伸びっぱなしの髭はもみあげとの区別が付かなくなっている。かつて色鮮やかだった衣服も擦り切れ、汚れ、体中からは悪臭がした。気休め程度の睡眠だけが、男の体力と気力を支えていた。

地平線間際で赤く染まった太陽が見える。

夜になると、誰かがやってきては男の耳元で囁く。それが一人の人間なのかは分からなかった。毎晩代わる代わる違うものがやってきては囁くのか、それとも交互に囁くのか。推測は頭に浮かんではすぐに消えていく。

目をこれでもかと見開いて正体を見極めてやろうと思っても、その姿は見えない。明かりも何も無い荒れ地では仕方ない事だった。満月の光も、星の明かりも、地面を照らすにはあまりにも弱すぎる。

地面に吸い込まれるような錯覚に陥った頃だった。しわがれた老婆の声がする。

「誰が許した?ここで眠れと、誰が告げた?」

男は何故か弁解しようと思い、口を開くのだが決して声にはならない。ただ一方的に何者かが罵るのだ。

「ここはお前の土地ではない。ここはお前の王国ではない」
「お前の許しはここにはないぞ。お前の罪はここではないぞ」
「歩け、歩け、ネズミのように。ネズミを連れて、お前は歩け」
「死んでも許さぬ。生まれ変わっても許さぬ。幸いなんぞ、お前に与えてやるものか」
「終わりがあると思うな。救いがあると思うな」
「これはお前の物語ではない」

きっとこれは夜明けまで続くのだろう。子守唄のようにこれを聞き、男は眠り、目を覚ます。日が出る頃には声が止んでいるのが常だ。最初に聞こえたのはいつだったか、男は覚えていない。声がするたび怯えたし、恐怖した。大声で叫び、獣のように威嚇したこともある。

けれど、今となってはそれも体力を奪われるだけどと知っている。こんなものの為に寝不足になるのも馬鹿馬鹿しい。男は未だ起き上がれないまま、じっと自身の行く先を見据えた。

歩かねばなるまい。できるだけ早く。けれど、声の主は「這ってでも前へ進め」とは言わなかった。一度として言われたことは無かった。

あと一日、このままでいよう。男はそう思った。歩き通しで、もう限界だった。暖かく、柔らかなベッドに身を沈めたい。冷えた赤ワインを喉に流し込み、温かいスープを飲み干したかった。干乾びたパンでもいい。あと一日待てば雨が降るかもしれない。寒さに身を縮めるかもしれないが、雨は水分だ。汚れきった体も洗われるだろう。そう言う希望が男の中に芽生えていた。

同じ場所で見た二度目の赤は、明日も晴れることを意味していたが、男はちっとも気にしなかった。もうじき夜が来る。何者かの声が来る。怯えるよりも眠気が勝り、男は眠りについた。

今夜は若い女の声だった。可愛らしくも美しい声。

「これはお前の物語ではない」
「死んで終わると思うなよ」
「溺れたネズミがお前を呪う」
「何度だって繰り返す」
「お前の後ろを、大勢の子供が追いかける」
「130人分の悲鳴と怒号と憎悪と悲嘆をお前は背負え」
「ご自慢の歌を歌え歌え」
「あの丘は昔のそれより高いか低いか」
「かの人が苦しみ歩いたそれより遠いか近いか」
「茨は不要だ、お前にはそれ程の価値も無い」
「もはや石を投げ打つ者もいない」
「それでもお前は許されない」
「悪ではないと言ってやろう」
「お前のその手首は穿たれない」
「ワインはコップに注がれたまま」
「パンは一口も食べられない」
「罪ではないと言ってやろう」
「それでもお前は許されない」

男は深い眠りについた。