鮮やか過ぎるレイトショウ

2011-09-24
story

鮮やか過ぎるレイトショウ

名前を教えてはならない。

それはお前の魂だからだ。

名前を聞いてはならない。

それは魂の強奪だからだ。

名前を忘れてはならない。

それは魂の終焉だからだ。

それは己を放棄することに似ている。

それは己の首に縄をくくること、

もしくは首そのものを差し出すことに似ている。

お前は名前を告げてはならない。

愛しい人にも、

憎い仇にも、

誰であっても。

確固たる存在でなければならない。

例えそれが不透明な存在だとしても。

この文句は私がまだ子供の頃に生まれたものだ。一種の流行語だったのだろう。それが何十世紀も経った今でもこうして残っている。何とも感慨深いものである。当時はそれがこんなに流行るだなんて誰も思いはしなかったものだ。

どこかの誰かが、ふざけ半分で作った言葉。今ではそれが重々しい響きを含んで聞こえるから不思議なものだ。

そう、我々は他者に名前を告げてはならない。

これを説明するには、我々の種族についても説明しなくてはならないだろう。我々は人間ではない、いわゆる吸血鬼だ。もちろん、名称はドラキュラだって何だって構わない。我々は呼び方に頓着しないのだ。

外見的特徴はごくごく人間に近い種族である。判別することはほぼ不可能だ。個人的な見解だが、人間の容姿に酷似している理由は獲物に近付きやすくするため、なのだと思う。肉体年齢は比較的若い状態で停滞している場合が多い。腰の曲がった老人よりも、素早く動き回れる若者の方が何かと都合が良いのだ。私は人間で言うとまだ30半ば程だが、もう何百年と生きている。

もちろん、私よりも年下で、外見が私よりも老いている者も少なくない。彼ら曰く、老人の方が何かと便利だと言う。吸血の手段によるのだろう。一世紀程、老人で過ごしてみたがあれは面倒だ。旅行に出かけるにも一大決心が必要だった。老人と見るだけで、無防備になる人間も勿論いたが、私はこれくらいの年齢が丁度良い。

こうして我々は知恵を絞り、血を絞り取る。血液から摂取するのは何も栄養だけではない。出生から現在に至るまで、ありとあらゆる全ての情報を瞬時に得ることができるのだ。もちろん、名前だって例外ではない。

我々の名前は生まれ落ちたその瞬間から決められているものだ。決して両親が頭をひねって考えたりはしない。血液に刻み込まれているものなのだ。

ただ漠然と、無意識の中で、「ああ、私はこういう名前なのか」と理解する。吸血鬼が一番最初に覚える言葉は自身の名前だ、という格言もあるそうだ。もちろん、その意味は私には分からない。とにかく、そうして私たちは名前を得る。両親でさえ子供の本当の名前を知ることは無い。子供もそうだ。

人間は事あるごとに「孤独だ」と嘆くそうだが、彼らは本物の孤独を知らないのではないだろうか。私は人間を見るたびにそう思う。彼らは名前を呼び合い、身体を寄せ合うことを知っている。

話が逸れてしまった。私の悪い癖だ。

まあ、つまりだ。仲間の血液を吸うことは同族殺しに等しい行為だと言うことだ。名前を知ってしまうから。吸血した瞬間、つまりは名前を知られた瞬間、我々は灰になって霧散するらしい。運良く、私はその瞬間に立ち会ったことはない。

しかし、我々は同族殺しで罪に問われない。我々は断罪されては絶滅してしまう種族なのだ。人間から血液を奪うことが難しくなってきた昨今では、つい仲間に手を出してしまう者も少なくない。

同族殺しは禁じるものではないのだ。そこが人間と決定的な違いかもしれない。人類は断罪されてようやく数が釣り合うのだ。同族殺しは禁じてはいけないのだ。私はそう思う。

名前を呼べない我々は、仲間内では互いが互いを好きなように呼んでいる。それは外見的特徴であったり、出会った都市の名前だったりする。

私の髪も肌も黒かったため、様々な言語で「黒」と呼ばれる。私の瞳が緑だったため様々な言語で「緑」と呼ばれる。私は海が好きだったため、様々な言語で「海」と呼ばれる。一つの所に留まれない性分だったため、様々な言語で「放浪者」と呼ばれた。様々だ。本当に。

たった一人だけ、私のことを「ロゼッタ」と呼ぶ人間がいた。すぐに人間だと気付いたのは彼女が自身の名前を名乗ったからだ。仲間であればまずそんな真似はしない。名乗った瞬間に灰になってしまう。もちろん、偽名であれば話は別だが。

「ロゼッタ?」

私はついそう答えた。相手は列車の中で偶然隣の席になった女性だ。若いが、おしとやかで柔らかい日だまりのような雰囲気を漂わせている。同じ町に住んでいることが分かり、それ以来よく町で見かけるようになった。

知り合う以前もこうしてすれ違っていたのだろう。彼女は二度目の邂逅で名前を名乗った。ヨゼフィーネ。色が白く、ブロンドの長い髪。瞳は私と同じ緑だった。

名前を言えない、と言う私の言葉にヨゼフィーネはこう言ったのだ。

「じゃあロゼッタって呼ぶね」

あっけらかんとした言い方に、私はしばらく呆然としたものだ。頭一つ分程低い位置にある彼女に、私は困惑しながらそう聞き返した。彼女は平然とした顔でそれを肯定する。

「そう、ロゼッタ」
「俺が女性に見えるかな?」

紳士的にそう尋ねたつもりだ。わずかに苛立ちを感じていたことは否定するまい。何と言う女性だ、と清楚な彼女のイメージが音を立てて崩れていくのを感じた。

「見えない」

ニコニコと笑いながら彼女はそう答える。サラサラと爽やかな風と共に彼女の髪が流れていく。若葉のように彼女の瞳が青々と輝いている。

「なら、どうして」
「ロゼッタストーンのロゼッタだよ」
「どうして」
「うーん、なんでかな。なんとなく」

バカみたいに「どうして」を繰り返した。本当に深い意味はないのか、それともはぐらかそうとしているのか、ヨゼフィーネは「なんとなく」を繰り返す。この辺で引いてやるのが大人の役目だろう、と私はその時に適当な相づちで会話を終了させたことを覚えている。

その時は嬉しそうに笑う彼女に疑問を抱いたものだ。名前も言えない不審な中年男と、良く親しくしていられるものだと。しかし、それが妙に嬉しかった。随分と長い間放浪していた時期だったし、そろそろ羽根を休めたかったのかもしれない。

私の淀んだ緑とか違う、輝く緑が強く印象に残った理由は、そんな些細なものなのだと。

街中で不意にロゼッタと呼ばれるのにも慣れるのに、そう時間はかからなかった。ヨゼフィーネは意外にも快活で、明るい女性だった。第一印象とは当てにならないものだ。私に懐く彼女の姿は妹のようで、またペットのようでもあった。意外にも悪い気はしない。

吸血鬼は基本的に個体で生活する。私の両親は生きているのか死んでいるのかも分からない。私が生まれて5年くらいは同じ家にいた気がするが、吸血鬼にとっての常識を一通り叩きこんだ後はそれぞれがどこかに消えてしまった。最後に会ったのはフランス革命の時だったか。血が沢山飲めて良い時代だ、と一晩飲み明かして以降、一度も出会っていない。絆だとか情だとか、そう言ったものに疎いのだ。家族と共に過ごした記憶は全く記憶していなかった。

だからこそ、ヨゼフィーネと買い物をしたり、彼女を昼食に招いて御馳走するのが楽しかった。くだらない話も聞いてやったし、聞かせてやった。ふざけて大昔の、それこそ歴史の教科書に載っているような話をすると、大抵彼女は「ロゼッタは歴史小説でも書けばいいのに」と言って笑う。嘘だと思われているのが癪ではあったが、仕方がない。吸血鬼だなんてばれてはこの心地いい空間が壊れてしまう。

私は極力、鋭く尖った犬歯が見えないように努力した。彼女の体の中を巡る血液について考えないようにした。幸いにも、彼女の真っ白な肌は陶器のようで、ヨゼフィーネが照れて頬を赤く染めない限りは意識せずに済んだ。

そんな努力もむなしく、ある時、私はヨゼフィーネに吸血鬼であることがばれてしまった。

もちろん彼女の血を頂こうとしたわけではない。そもそも顔見知りからは頂戴しない、と言うのが私のルールだ。いつだって、酒を飲み、酔っ払ったフリをして見知らぬ相手からこっそりと頂くのだ。案外ばれないもので、私はそれを常套手段としていた。

ただその時は演技ではなく本当に酔っ払っていて、路地裏でついガブリと言ってしまったのだ。

首筋からダラダラと流れる鮮血が美しかった。さすがにまずいと思い、相手の止血をしようとした。要は、吸い取ってしまおうと思ったのだ。獣のように舌を伸ばした瞬間、ヨゼフィーネの顔が大通りから見えた。ぎくりとする。満月のせいか夜の暗さをそれほど感じなかったし、もしも彼女がこちらを向いたら見知ったシルエットに疑問くらい抱くかもしれない。我々は暗闇をものともしない。だから人間がどの程度暗闇で判別できるのか分からなかった。

だから彼女がこちらに向いた瞬間、私はサッと血の気が引いて、酔いが醒めた。かちりと目があったのだ。満月を憎んだのはこの時が最初で最後だ。

異常者か犯罪者の類だと、そう思われた。正体がばれるよりもそちらの方が厄介だった。すぐさま町を出ようと思った瞬間、ヨゼフィーネがつかつかとこちらへ近寄り、私の腕を掴んだ。予想以上に強い力だった。怒っているのをひしひと感じて、このままコウモリにでもなって逃げ出そうかと思った程だ。けれど、そうしなかった。弁解できるものならしてみようと思ったのだ。とぼけられるならそうした方が良い。逃げるのは最終手段でいい。

置いてきぼりをくらった相手には申し訳ないが、頭の隅にも彼女のことは存在しなかった。

ヨゼフィーネの部屋を訪れたのはこれが初めてだった。簡素で質素な部屋。18になって働くためにこちらに越してきた、一人暮らしだと言うのは聞いていたが、やはり裕福ではないのだろう。物が極端に少なかった。

木目調のイスに座らされ、目の前に彼女が座る。尋問のようだ。対面するヨゼフィーネの表情はいつもよりも険しい。ふざけて笑って見せようかと思ったが、そんな雰囲気ではない。

正直に、ありのままを喋ってしまおうと深く長いため息をついた。それが合図になってしまったようだ。淡く色づいた唇を舐め、ヨゼフィーネはそっと口を開いた。

「何、してたの」

強い口調だった。まさしく、尋問のような。

「何も」
「嘘」
「嘘じゃないさ」
「だって、あんなに血を流していた」
「死ぬ量じゃない」
「ロゼッタがやったのね」

確信している声だった。無理はないと思う。あれは明らかに、そうとしか見えなかった。

「どうして?」

ヨゼフィーネが問い質す。いつかと立場が変わったな、と懐かしく思う。それが表情に出たらしい。「笑わないで」と静かな怒りを込めてヨゼフィーネが言う。

「どうして」
「そんな状況じゃないからでしょう」
「そうかな」
「質問に答えてよ、お願いだから」
「そういう義務が、俺にある?」

そう言うと、ヨゼフィーネは俯いた。長いブロンドの髪がさらりとテーブルに触れた。柔らかそうな髪だ。まだ触れたことは無い。「ないけど…」そう彼女は疲れきった声でそう呟く。

「ないけど、私は聞きたい」

気を持ち直したのか、真っ直ぐに私を見据えてくる。

「好きだから?」

俺のことが。

そう言った瞬間、ヨゼフィーネはまるで傷でも負ったかのように顔をしかめた。その後で、羞恥で顔を赤く染める。血液が循環しているのが、頬を見て分かる。血の色だ。ごくりと喉が鳴ったのを誤魔化すように私はわざと冷たい声を発した。

「だから、知りたい?」
「知ってたんだ」

か細い声だ。まるで、一番最初に出会った頃のような、大人しいヨゼフィーネ。再び俯き、美しい瞳が姿を消した。

「まあね。伊達に年をとっていない」
「ロゼッタは、私のこと子供としか見てないでしょう」

これも疑問形ではない。どうしてか、それを躍起になって否定したくて堪らない自分がいる。けれど、そうする理由が見つからなくて黙り込む。沈黙に耐えきれないのか、まるで訴えかけるような瞳で、ヨゼフィーネがこちらを見た。

「あの路地裏で、何をしていたの?」

話題を戻してきた。声も問い詰めるような強いものに戻っている。彼女はとてもスイッチの切り替えが上手だ。もうこの話はしたくない、と言うことらしい。しかし、私としてはこちらの話の方がしたくない。

「言いたくないね」

そう言うと、彼女がぼろりと涙をこぼした。これにはぎょっとした。何故そんな流れになるのか、さっぱり理解できなかったのだ。種族間の壁なのだろうか、それとも性別の壁なのだろうか。

「名前も言えない、何故あんなことをしたのか説明もしてくれない…。ロゼッタは人殺しなの?いつか、私をあんな風に殺してしまうの?」

私に向けているのか、分からない言葉達。私も少し動揺していたのだ。「殺してないよ」と答えるので精一杯だった。

「じゃあ、何であんなことを?」

結局その質問になるのだ。私は自暴自棄になっていたのだろう。そして、やはり、酔っていた。

「俺は吸血鬼なんだよ。名前を言ったら死んでしまう。血を摂らなくても死んでしまう。路地裏で血を吸ってたんだ。だって、そうしないと俺は死んでしまうから。吸血鬼だと知られた者の行く末は迫害だ。君には知られたくなかった。だからどうにか誤魔化したかったのに…。あ、それと、俺は案外君のことを子供として見ていないよ」

そう言って涙をぽろぽろと落とすヨゼフィーネの顔を見た。輝く緑色の瞳がきょとんと、こちらを見詰めている。雫までもが美しく輝いている。やけに幼い。そして滑稽だ。私は声に出して笑ってしまった。滑稽なのはどちらだ。