ぺたっぺたっと裸足で跳ねる音がする。この帝国図書館の絶対君主、カミガヤツリ館長の歩く音だ。何度言っても彼はスリッパを履こうとしない。私は長いため息をつくと、がりがりとそばかすを掻きむしる。肌荒れになろうが構いやしない。

寄贈された本の山を睨みつけ、私はリストを作成していく。私が集めている小説の続編も出ているが、きっと購入するのはずっと先のことだろう。読みたい本は山ほどあり、そして読むべき書物はその倍以上あり、けれども休暇はその半分以下なのだ。

そしてその間に検品結果と称した誰かのネタバレに遭遇するわけだ。別に構わないが、眼前のごちそうにありつけないのは残念である。

古来からの風習とも言うべきか、新刊が発売される日にちというのはある程度共通している。こぞって新たな書物を生み出す日。帝国に生け贄を捧げる日。我々の仕事量が何倍にもなる日。初版と呼ばれるそれらが店頭に並ぶ事は無い。独占欲の強い我らが王が店頭に並ぶ書物の表記を「第二版」にせよと命じたのだ。初版本は唯一のものとなり、そして永遠に帝国で眠りにつく。

今日がその日にあたるのだ。そう、今日がその日なのだ。

その日。そう、今日なのだ。館長は月に一度、「死体」に会いに行く。 それは私の知人であり、帝国内きっての狂人なのだが、館長は頑なに「死体」と彼の事を呼ぶ。

帝国でひたすら物語を読み、言葉を吐き続ける男。

帝国に搾取され続けるだけの男。

帝国に奪われていく本たちを見て、帝国に組する事も、敵対することも選ばなかった唯一の人間だ。元々評論家だった彼は自分自身のために、ただ読みたい本を読むために、帝国に潜り込んだ。小説家としての顔もあったので、館長は彼を意外にも歓迎した。

彼に役職を与えず、ただ一室のみを与え、帝国内での自由を与えた。帝国から出て行くことを禁じた。

まさしく帝国に巣食う異物であるため、彼を名前で呼ぶものはいない。文学研究でも著名な彼だったのだが、いつからか私ですらその彼の名前を忘れてしまった。帝国内で読み、研究した結果は機密情報となり、世に出版できなくなっているのだ。

もちろんそれでは彼の生活が成り立たない。そこで、紛れ込んで来る大量生産品の一部を彼は渋々とも嬉々ともとれる表情で読み込み、それについて語ることを始めた。

それを面白がった館長が彼の文章を丸ごと買い取ることにしたのだ。その代わり、『彼』は帝国にやってくる本を誰よりも先に読むことが許された。希少価値のあるものや古典に関心が無いのが良かった。彼は時代によって生み出される物語が好みなのだ。名無しの作家による物語が特に。

それはもう、病的な程に。

ぺたっぺたっという音が止む。私はリストをひとまず保存し、作業の手をとめた。そうして聞こえる独裁者の声は、私を死者の元へと誘うのだ。

ストーリージャンキーの『彼』は、思いついた言葉全てを吐き出すのが好きだった。そうしないと記憶に残らず、何一つ記述出来ないのだと言う。脳内に渦巻く言葉の濁流に飲み込まれ、片っ端から腐っていくそうだ。それは手での記録では到底追いつけない速度なので、彼の部屋には大きなモニタが付いている。彼の言葉を瞬時に録音し、文字に起こす。モニタは昼夜問わず、常に画面いっぱいに文字を流し込んでいる。

だから、ちょうど我々が彼の独房に辿り着いた時は演説の真っ最中だったと言うわけだ。

彼はまさに俳優のように大げさな身振り手振りで動き回っていた。シワが目立つ彼の指がつうと自身の鎖骨に触れている。モニタにはすでに小さな文字が雪崩を起こしていた。

「鎖骨の下。肉体の中心線上。心臓とは異なる存在。大きな栓が俺の体にはある。 それをぐいと、抜き取るイメージ。とてつもない苦痛が伴う。心臓が痛い、発狂してしまうそうな苦しみ。 呼吸が上手く出来ない、外的な痛みではない、内的な、心の痛み。 きっとこの栓を抜けば、俺は死んでしまう。 この栓がある限り、苦しみ続けるのだ。 この栓を抜いてしまいたい。死んでしまうとしても。 それでもいい、と思うのだが、生物としての本能がそれを阻んでいる。 苦しくて仕方が無い、逃れたい、しかしそれは自分の死を意味している。そしてそれは、自分の生を意味している」

詩人か哲学家のような言葉の濁流だ。延々と続くかと思った演説は不意に終わりを迎えた。立ち止まった彼の背中は少しだけ丸くなっていた。じわりと額に汗を浮かべた彼は、ふうと満足げな、それでいて青ざめた顔でこちらを振り向いた。窪んだ瞳、やせ衰えた体、無精髭、黄色く汚れて見える皮膚、全てが不健康で、全てが病的だった。

そのぎょろりとした目を見て、私の脳裏に浮かんだ言葉は「深淵」だ。にたりと笑った顔は嘲笑と呼ぶもので、悪意に満ちている。

「やあ、王様。今日はお供を連れているのか」
「こんにちは、僕の死体」

だるだるに伸びきったセーターを持ち上げ、館長は簡単な挨拶をしてみせる。私はその後ろで小さく会釈をするだけだ。 彼と比べると、館長がいくぶん爽やかに見えるから不思議だった。

「今日は面白い本が入ったぞ。モスクワの新進気鋭の青年作家だそうだ。煽っている割に、貧相な文章じゃないか。つまらない、面白いくらいにつまらない。これが面白いなんて、モスクワは大層喜びの無い街になってしまったんだろうよ」
「そんなくだらない本を彩るために君が論じるんだろう?ほら、続きを書かなくてもいいの?」

ちらりとモニタを見ると、彼らが交わした会話は表示されていなかった。判別できるのだろうか。だとしたら彼一人に随分と経費をかけていることになる。

私が脳内で計算している間に、死人と呼ぶに相応しい彼は薄ら黄ばんだ歯を見せて笑った。

「ああ、そうだ。書かないと……『読書と言う行為に没頭することは、死への渇望だ。評論と言う行為に没頭することは、生への願望だ。』……こうしてる間にも、俺の言葉は放流を続けているんだから……」

まるで夢を見ているかのように呟き続ける彼を見て、館長は感嘆のため息をはく。

「いいよねえ。彼の言葉は心地良いよ。ササミちゃんが物語好きなのもちょっと理解できそう」

私はそれに返事をしなかった。

彼の紡ぐ言葉には、確かに鬼気迫るものがあると私も思う。しかし、それが才能や世間の評価に直結するかと言うと疑問が残る。有り体に言えば、私は彼の作品を一つも評価した事が無い。評論に関しては賛否両論分かれるところだろう。彼の言葉の節々には、良い小説、良い作家への嫉妬が滲み出ているのだ。半紙に広がっていく墨のようなそれを、魅力と捉える人間がいるのも事実だった。私はそれも彼の個性と捉えていたが、やはり好きにはなれなかった。

小説家としての彼は悉く三流で、出す本全てが鳴かず飛ばずの有様だ。彼が小説を出版すると、彼の評論で酷評された作家たちがこぞって評論と言う名の攻撃に転じた。

他者への嫉妬と己の欲望で満たされた小説、読むのが苦痛だ、筆者の感情の発露しているだけ、小説とは言い難い、汚泥のような不快感が残る、ネガティブな言葉を詩的に並べただけで中身が無い……。実に作家らしい、多様な言葉達が彼を傷付けようとした。それらは彼を傷付けない代わりに、彼の代名詞となり、評価となった。

しかし、それがいいと館長は言うのだ。本にしか関心のない王が、彼の言葉には興味を示す。

「己の異常さがそのまま商売になるやつってのはいいよ。 己の異様さがそのまま才能になるやつってのはいいよ。 許されながら生きていくことができるんだから。 平々凡々に異常なおれたちの居場所の無さったらないぜ。 涙一つこぼすにも、人気の無いところを探しに方々歩かなきゃならねぇんだから」
「今のは原稿じゃなくって君の呟きかい?」

館長がそう尋ねると、ぎろりと鋭く濁った眼がこちらを向いた。何一つ反論することなく、彼の口は言葉を吐き続ける。全てがモニタによって記録されている。

ふらふらと夢遊病者のように彼は歩き回った。眉間にシワを寄せ、苦悩するかのように。その様は丘へ向かうキリストにも見えるが、神々しさは一辺も感じない。すらすらと吐き出される言葉はモニタ上で紡がれ続けている。彼は特に目的もないまま、言葉の濁流に飲み込まれまいと抗うように動き回っている。

帝国ではそれしか彼に許されていないから、彼はそうするしか無いのかもしれない。

館長は床にあぐらをかいて座ると、にこにこと満足そうに彼とモニタを眺めている。長居するつもりのようだ。リズム良く左右に揺れる肩から、ご機嫌なのがありありと見て取れる。王様と奴隷の対比は中々悲劇的ではあるのだが、いつまでも見ていると私の仕事は永久に終わらないし、ここ満ちる悪意のせいで何だが具合が悪くなりそうだった。

「……私、仕事に戻りますよ」

私はかがみ、館長の耳元でぼそりと宣告した。館長は微笑みを浮かべたままちらりと私を見て、それから右手をひらひらと振った。行って良い、と言う意味だろう。視線はそれから彼とモニタを行き来するばかりで、私を気にかける様子は無い。

そのままそっと静かに部屋を出る。呟く彼の声がどんどん小さくなっていく。いつまでも小さく聞こえて来る気がした。耳の奥にこびりつくいたようで不快だった。

嫉妬と孤独に苛まれた凡愚が苦しみながら文学に没頭する姿は、たまらなく愉快なんだろう。悪趣味だとは思ったが、批判はできない。あれはあれで、誰の事も不幸にしていない。むしろ需要と供給が成立して良いのかもしれない。

彼の小説を読んだときと全く同じ、蛇が全身にからみついているような嫌悪感だけが体にいつまでも残っていた。